篠田 昭 略歴 新潟市長になるまで
- 1948(昭和23)年7月17日生まれ
- 1955(同29)年4月 新潟大学教育学部付属新潟小学校入学
- 1961(同36)年4月 同新潟中学校入学
- 1964(同39)年4月 新潟県立新潟高校入学
- 1967(同42)年4月 上智大学外国語学部ロシア語学科入学
- 1972(同47)年4月 新潟日報社入社、本社編集局報道部配属(県警クラブ4月~8月、市政クラブ9月~73年3月)
- 1973(同48)年4月 上越支社報道部配属(主な取材=信越化学ガス爆発、主な連載=「山買いが来て」「斑尾 光と影」)
- 1976(同51)年4月 本社編集局整理部配属(80年度新潟日報労組執行委員)
- 1981(同56)年9月 本社報道部配属(フリー・遊軍担当)(主な取材=田中角栄後援会『越山会』→「風土と政治・越山会」、「鳥屋野潟」
=上越新幹線開通→「泥流ずい道 中山トンネルの1年」
=新潟市のまちづくり→「いま、新潟島」「にいがた水と街」
=新潟の地域づくり→「地域おこしシリーズ」) - 1984(同59)年9月 新発田支局配属(主な連載=「地域おこしへの道・現代の干拓者たち・新発田木枯らし商い模様」
「1985年総選挙・2区の闘い」「阿賀北・明日はどっちだ」) - 1987(同62)年4月 本社報道部配属(フリー・遊軍担当)(主な取材=地方自治→「混迷・黒埼町」
=新潟県政→「明日のにいがた・知事のタクト・傾いた道標」
=新潟市政→「なじらね・新潟」
=新潟と海外→「こちら首長国連邦」「にいがた国際時代」) - 1991(平成3)年4月 東京支社報道部キャップ(主な取材=新潟と東京→「東風新風」「霞が関の県人たち」
=環日本海→「環日本海 人 ネット」
=田中角栄元首相→「発掘 田中角栄」) - 1994(同6)年4月 本社編集局報道部フリー担当キャップ(主な取材=新潟のまちづくり→「とんとん討論」「にいがた 街 ひと物語」
=新潟県の針路→「にいがた新時代」
=新潟と海外→「米国中南部を行く オハイオ アーカンソー アラバ
マ州) - 1995(同7)年4月 本社報道部デスク(フリー担当)兼編集委員(主な企画=「大学が地域を変える」「戦後50年・海を越えて・山を越えて」
主な取材=「編集委員のページ 視点 歩く 聞く」) - 1997(同9)年4月 本社学芸部長兼編集委員(主な企画=「新・男女考」「20世紀にいがた100シーン」
主な取材=「米国西海岸を行く」「学校いきいき・地域との絆」
「20~21 世紀のなぎさで」) - 2000(同12)年4月 長岡支社報道部長兼編集委員
(主な企画=「21世紀の自画像」) - 2001(同13年) 論説委員室 論説・編集委員
(主な取材=「北欧・福祉大国を行く」) - 2002(同14)年9月新潟日報社退社
- 2002(同14)年9月新潟市長選に立候補表明
- 2002(同14)年11月3日告示の新潟市長選に立候補
- 2002(同14)年11月10日 7万4、554票を得て新潟市長に当選
- 2002(同14)年11月18日 新潟市長に就任
新潟市長就任後の自己紹介
なぜか、「でも、しか記者」に
昭和23(1948)年、新潟市の駅前旅館に生まれ、高校を出るまで新潟市で育った。大学進学のため、東京に出た。3人兄弟の末っ子だったし、新潟に戻ってくる気はなかった。商社マンを一応希望していたが、大学4年生(正確には5年生)になるとき、「マスコミにでも入るか」と、なぜか気が変わった。マスコミ受験のためにわか勉強をして、在京の新聞社や通信社、出版社を受けたが、みな落ちてしまった。最後に受けた地元の新聞社(新潟日報社)に拾ってもらい、23歳で新潟市に戻ってきた。
「現場で、足で、確かめろ」
だから、高い志や理念を持ってマスコミ界を目指した記者ではない。「記者にでもなるか」「記者にしかなれない」の、「でも、しか記者」である。ただ、地元紙に入って間もなく、「記者になって良かった」「地元紙に入って良かった」と、思うようになった。「記者になって良かった」と思い始めたのは、入社2年目に上越支社に転勤になり、公害取材を経験してからだ。企業や行政の説明と、住民が暮らす現場の状況は、まるで違っていた。現場に足を置いて、企業や役所とキャッチボールすると、これまでとは違う新しい世界が見えてくる気がした。新鮮な驚きだった。「役所の説明や記者発表を鵜呑みにするな。現場で、足で、確かめろ」という先輩記者の言葉の重みが、ようやく少し理解できたように思えた。公害に限らず、地域開発や、過疎という名の急激な人口減少、自然災害と、当時の上越地域は「現場」に事欠かなかった。
新潟を「定点観測地」として
「地元紙に入って良かった」と思い出したのは、3年間の上越支社勤務を終えて、新潟市の本社に戻る前だったように思う。「全国各地を渡り歩いてさまざまなテーマを追い求めるより、新潟を定点観測地として、新潟特有のテーマを掘り下げた方が面白い」と感じるようになっていた。その思いが確信に高まったのは、昭和57(1982)年夏、新潟市の中心部でありながら空洞化の影が忍び寄る「新潟島」(信濃川と関屋分水に挟まれた地域)を取材した時だった。マイカー社会や郊外型まちづくり、さらには大型店時代への本格移行を前に、新潟島は大きな問題を抱えていた。萬代橋の下流連絡路など交通体系の整備とともに、個性あるまちづくりが求められていると痛感した。かつて堀と柳と新潟芸妓の情緒で全国に知られていた新潟市の中心部は、近代化の名の下に「リトル・トウキョウ」化が最も進んだ地方都市の一つになっていた。新潟の素晴らしい財産である「水辺のまち」と「もてなしの心」の復活が急務であることを「いま新潟島」の連載で訴えたつもりだった。
田中元首相後援会「越山会」を取材
同じ年の秋から、田中角栄元首相の後援会組織「越山会」取材を担当することになった。田中元首相が刑事被告人とされたロッキード事件の判決が、1年後に予測されていた。ロッキード事件で田中元首相が逮捕された昭和51(1976)年7月以来、東京紙は厳しい田中批判を展開していた。田中元首相だけでなく、彼の選挙区だった新潟3区(当時)の政治・精神風土についても「田中型利益誘導を無自覚に受け入れ、元首相が刑事被告人になっても支持を変えない」と指弾していた。新潟3区有権者を「愚民」ととらえるような報道も一般化していた。この中央マスコミの姿勢は、同年12月の総選挙で顕著になり、54、55年の総選挙まで、同じようなトーンで繰り返し展開されていた。一方、地元紙である新潟日報は、社説では「田中支持には3区の厳しい自然風土が反映している」との姿勢を示してはいたが、一般紙面での報道は「『腰が定まっていない』と批判されてもやむを得ないレベル」と個人的には感じていた。そんな流れの中で、当時の新潟日報編集局幹部は「ロッキード判決が出る58(1983)年が日報としても勝負の年となる」と見て、元首相と新潟の政治風土を検証する大型シリーズを企画したのだった。
「愚民報道」については、私も1県民として許せないとの思いが強かった。しかし、田中元首相についても、新潟3区についても勉強不足だった。取材チームに入ったことを契機に、田中元首相を支持し続ける「越山会」の論理と思いを、3区の政治風土とともに解明しようと3区に通った。1年3カ月余の取材期間のうち、2百日以上は新潟3区で取材に当たっただろうか。
際立つ「田中依存体質」
越山会は、昭和20年代半ばに3区の各地で結成され始めた。当初は「わが地域の開発のために代議士・田中角栄を使う」との立場が明確だった。しかし、田中元首相が中央政界で力をつけていくにつれ、田中元首相を頼る「依存型」の姿勢が目立ってくる。「こっちの目の前で建設省(当時)幹部に電話で指示してくれると、次からの対応がまるで違った」「我々は新潟県庁に物を頼みに行く必要がない。(田中元首相邸のある)目白にだけ行けば用が足りる」―などの「田中神話」が、どの越山会幹部からも溢れるように飛び出してきた。「目白に行けばすべてOK」との雰囲気の中で、「地域の未来図も目白で描いてくれる」との錯覚に陥った地域も少なからずあるように感じた。3区に満ちている「田中神話」や「角栄効果」について取材しながら、「何かおかしい」との気持ちが膨らんでいった。それは「他人に描いてもらった地域の未来図では、本物の地域づくりはできないのではないか。地域づくりは自らが考え、汗を流すからこそ楽しいのではないか」という素朴な思いであり、「田中元首相といえども永遠ではない。田中元首相に依存することに慣れ切ってしまった体質は、後遺症となって長く新潟を悩ますのではないか」との懸念だった。
私の個人的思いとは別に、日本政界は動いていく。昭和58(1983)年10月、田中元首相に東京地裁で有罪判決が下った。同年12月18日に行われた総選挙では、田中元首相が22万票という驚異的な得票で新潟3区民の支持を得た。大量票に沸き返る越山会幹部を取材しながら、「22万票で新潟の将来展望が開けるわけではないのに…」との思いが消えなかったのを覚えている。
次のテーマは「地域おこし」
この総選挙取材を終えた後、われわれは年明けから新たなシリーズの取材に取り掛かった。テーマは「地域おこし」だった。目を全国に転じると、昭和50年代半ばから各地で自立・自助の精神に支えられた地域づくりが始まっていた。しかし、絶大な政治力を誇る田中元首相のお膝元では、政治家依存・官依存が強まるばかりだった。この風潮に一石を投じたいとの思いだった。自立の精神で「一村一品運動」に取り組む大分県や地道な地域づくりを進める山形県小国町など新潟県外の取り組みと、ようやく芽を出そうとしている東頚城郡安塚町など新潟県内の挑戦を紹介した。
その翌年の昭和60(1985)年2月27日、田中元首相は脳梗塞で倒れ、政治的生命を失った。新潟県は当時の君健男知事の下で「田中抜き県政」が始まるが、公共事業中心の地域づくりは変わらなかった。「田中依存」の後遺症は新潟に長く影を落としているように思えた。「田中元首相という太陽が光を失ったら、君知事というお月さまがやたらに光ろうとしている」などと口の悪い政治通は陰口をたたいていたものだ。
「地方政治と地域づくり」の二本柱>
私にとって、越山会と地域おこしの取材は大きな財産となった。その後も記者として「地方政治」と「地域づくり」を二本柱として取材を続けていった。記者として「国内外の動きを新潟県民に分かりやすく『翻訳』して、新潟の将来方向をできる限り指し示す記事を書く」ことを心掛けてきたつもりだった。この方向の下、全国に広がる自立自助の観点から君県政の問題点を突いた「新潟県のあすを考える―知事のタクト」(昭和62年)や、仙台市の政令指定都市化の動きを踏まえて新潟市の将来を考えた「なじらねNIIGATA」(同63年)、韓国やシンガポールなどNIESの台頭と新潟の地場産地への影響を海外取材も交えて報じた「にいがた国際時代」(同年)のシリーズなどが個人的は印象に残っている。
「風車の人」になりたい
総じて充実した記者生活を送らせてもらった私が、どうして新潟市長という立場になったのか―自分でもよく説明できない部分がある。一つ確かなことは「記者としてよりも、もっと直接的に地域にかかわってみたい」との気持ちが次第に膨らんでいったことだ。こんな話を聞いたことがある。「人間には3つのタイプがある。1つは『地の人』だ。その土地に根を張り、土地と共に生きて、その地で一生を終えていくタイプだ。2つ目は『風の人』だ。さまざまな情報を持って各地を渡り、地の人に新しい価値観を授けて去っていく人だ。第3は『風車の人』である。大地にどっしりと根をおろしながらも時代の風や情報をキャッチしては風車を回し、地域にエネルギーを与えるタイプだ」というような趣旨だった。
私は記者として長く「風の人」演じてきたのだと思う。しかし、次第に「風の人」に飽き足りず、「風車の人」志向が強まっていたようだ。友人らが結成した「新潟仕掛人会議」に参画したり、2人の兄が仲間と始めた「日本海夕日コンサート」の輪に加わったりしていた。東京紙の記者や大学時代の仲間たちと話をしていると、私が新潟のことばかり言うので、「にいがた原理主義者」とからかわれたこともあった。新潟への思いは人一倍強いつもりだ。それが、新潟市長選に手を挙げた土台となっている。それは間違いないように思う。
=新潟市長に就任2年後、平成16(2004)年に新潟日報事業社から出版した「新潟力」の「まえがきにかえて―地元記者からの転身」をほぼ援用した=
記者時代の主な共著
「ザ・越山会」「角栄の風土」「阿賀北―地域おこしの道」「新潟をどうする」「にいがた・街・ひと・物語」「大学が地域を変える」「流出の系譜~新潟の戦後50年」「20世紀にいがた100シーン」「世紀のなぎさで~新潟の過去・現在・未来」(以上、新潟日報事業社)、「宰相・田中角栄の真実」(講談社)、「田中角栄ロンググッドバイ」(潮出版)など。