*新潟の助け合いの歩み4*
ー河田珪子さんの目指す
「歩いて15分以内の助け合い」―
第3章「実家の茶の間・紫竹」が動き出した
◆助け合い社会のモデルに
新潟市との協働スタート◆
<「時代の要請」を痛感>
国が「地域包括ケアシステム」の構築に本腰を入れ始めた2010年代前半、河田さんは「時代の要請」をひしひしと感じ始めた。その頃、新潟市は何をしていたのか。河田さんたちの取り組みの影響もあって、2期目終盤を迎えた篠田昭新潟市長(当時)は「日本一安心な政令市」を目標に掲げ、2010年からは地域包括ケアへシステムの移行を全庁で確認した。3期目を迎える2011年には、お年寄りらの福祉課題の解決のつなぎ役として「地域福祉コーディネーター」の育成研修を開始した。2012年には各区に市民主体のサービスを創り出す「生活支援コーディネーター」の配置に着手。お年寄りの暮らしを支援する態勢づくりに入っていた。そして、国は2014年から本格的に地域包括ケアの態勢づくりを自治体に求めていくことになる。
<「政策調整官」の役割>
河田さんの思いと、新潟市・国の取り組みがクロスしようとしていた。「こういう時こそ『うちの実家』のような居場所が新潟に必要なのでは。そこを拠点にすれば、これから本格的に始まる地域包括ケアを推進する人材づくりにもお役に立てる」。河田さんは「時代の要請」を感じながら2014(平成26)年、新潟市の政策調整官、望月迪洋さん=当時68歳=に相談した。望月さんは篠田市長=当時65歳=と同じ地元新聞社の出身。地元紙を退職した後、篠田市長から請われて、地元新聞社を定年退職した後、市役所に入った。河田さんらと共に市社会福祉協議会の改革に取り組むなど、主に福祉政策の分野で民間と市をつなぐ役割を果たしていた。篠田前市長は述懐する。「市長が把握できる市政課題にはやはり限界がある。私からは見えにくい、しかし、重要な課題や現場の状況などについて、望月さんは市の組織とは別のルートで私にタイムリーに情報を届けてくれる。貴重な存在の政策調整官でした。河田さんが望月さんと連携していなければ、新潟市の包括ケアの取り組みは大幅に遅れていたでしょう」
<東区の空き家を活用>
河田さんから話を聞いた望月さんは、篠田市長(当時)に河田さんの思いや考え方を報告。「市との協働事業で、地域包括ケア社会を象徴するモデルとして茶の間を運営できないか」とのプランが動き出した。河田さんは、新聞記者時代の篠田さんと交流があり、気心も知れていた。河田さんが「うちの実家」を運営して間もなく、市の幹部研修に「うちの実家」を選び、市民によるボランティア活動の現場で学んだこともあった。2014年6月、河田さんは新潟市長と面談する。篠田前市長は、その時の様子をこう振り返る。「地域包括ケアシステムは『住み慣れた地域でずっと安心に暮らしていく』ことを目指すもの。その時、身近な地域に『みんなの居場所』があり、助け合っていくことは大切な要素、と思っていました。新潟には河田さんたちの茶の間の実践がある。『うちの実家』のような場をもう一度つくっていただけば、みんなが助け合って生きる社会のモデルになる。これから支え合いの居場所をつくりたい人にとっては素晴らしい学びの場にもなるでしょう。だって、支え合いの居場所づくりは座学だけでなく、雰囲気から感じ取る部分が大きいですから。『市との協働事業で、是非やってほしい』とお願いしました」
ここから話はトントン拍子に進んだ。新潟市は河田さんに「支え合いのしくみづくりアドバイザー」を委嘱し、居場所は「地域包括ケア推進モデルハウス」の位置付けとした。河田さんはこのネーミング通りの活動を展開していくことになるのだが、多くの人は「うちの実家」の再現と捉え、地域包括ケアシステムづくりと強くリンクしていくことまでは分からなかった。何はともあれ、新潟市と一緒に「場所探し」が始まった。市がいくつかの候補物件を提示。河田さんたちは、さまざまな地域診断を進めつつ、東区紫竹にあった空き家を活用することに決めた。昔からの農村地帯に住宅開発が進んで転勤族も多いという、多様な要素が混在する地域がモデルハウスを運営するにふさわしいと思ったからだった。
写真=「実家の茶の間・紫竹」の外観。東区の空き家を活用した
<「おカネがないのはチャンス」>
先ほど触れたように市の負担は家賃と光熱・水道費だけで、運営は「実家の茶の間運営委員会」が担当する。市長に会った4カ月後となる10月には開所に漕ぎつけたのだから、すごいスピードだった。長く空き家になっていたので、居場所にするには修繕が大変だ。でも、市からの改修費は40万円だけ。「40万円は、あっという間になくなりました。だって、家をきれいにするのに掃除機もなければ、何もないわけですから。市の人も『どうしましょうか』と気を遣ってくれたけど、私はおカネがないのはチャンスだと思った。ほら、ここを見てください。このテーブルも、椅子も、ここの備品はみんな、それまで一緒に活動してきた仲間や地域の人が出してくれたもの。寄付してくれたものなんです。食器もみんな、そう。お世話になることで絆ができる。『これはチャンスですね』、と。地元を対象にした説明会に参加した80代男性トリオが大活躍してくれて、手すりとか、みんな大工仕事で作ってくれた。外回りもそうだし、中庭もきれいにしてくれてね。お世話を掛けた人みんなが『ここは自分の実家だ』と思ってくれたの」。ここでもこれまでの知恵とノウハウが役立った。
写真=「実家の茶の間・紫竹」に貼り出されている注意書き。「うちの実家」からのノウハウが生きている
<地域との関係づくり>
地域との関係づくりも「うちの実家」の時の経験が生きた。「私が最初に挨拶に行ったのは向う3軒、両隣でした。だって、一番関心があるのはその方たち。『何ができるのか』って固唾を呑んでいたのでしょう。その方たちにまず挨拶して、お話しをしました。そうすると居場所を我が事と捉えてくれる。その上で、地域の自治会長さん、老人クラブさん、民生委員さんらを、その方たちから次々とご紹介いただいた。駐車スペースなども地域からすごくご協力いただいています」
オープンした直後は、見学や視察の人は大勢来たが、肝心の地域の方は遠巻きに見ている感じだったそうだ。特にお年寄りが来てくれない。「お向かいさんや両隣に挨拶に行く時から地域との関係づくりは始まっているし、説明会も開き、回覧板も廻してもらったんです。けれど、ご近所のお年寄りは来ない。ここで高齢者に情報を届ける難しさに気づきました。回覧板は、一人暮らしのお年寄り、それも足が悪かったりすれば、気を遣ってその家を飛ばして回している。家族と同居の家では、子ども夫婦だけが見て廻してしまう。高齢者は情報弱者でもあったんです」。そこに気が付いた河田さんたちは、「うちの実家」で近くの南中野山小学校と緊密な関係を結んだ経験を活かし、地域の二つの小学校(江南小と沼垂小)との関係づくりに入った。「ここでも近くの学校の子どもたちに来てもらうようにしました。学校との関係も当番役に入っているご近所さんがつないでくれ、例の80代トリオら男性方が『子どもたちが来られるようにしよう』と改修に動いてくれました。子どもたちが来るようになると、近所の方が家の外から中の様子を見るようになった。自分の子どもや孫が行く場所のことが気になって、知りたくなるんでしょう。外から覗いている、そこへ声を掛けて、中に入ってもらうようにしました」
<全8区にモデルハウス開設>
なるほど。確かに「実家の茶の間・紫竹」に来た時も、玄関が開いていて、私たちの気配を感じた当番さんが「どうぞ」と声を掛けてくれた。常に入りやすいように気を配っているのだ。お年寄りをはじめ、集まった人たちがゆったりとした時を過ごし、明るく元気になっていく「茶の間」の取り組みは大変に素晴らしいものと感じた。しかし、「実家の茶の間・紫竹」の奥深さを知るのはここからだった。「地域での助け合い」は、まずこの場所の利用者同士から始まっていたのだ。
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