◆ブログ「実家の茶の間」・30日で大団円◆
2024年10月31日
―飛び交う「ありがとう!」の言葉―
―助け合いの歴史を創り、明日につなぐ―
<10年の歴史に終止符>
2024年10月30日、新潟市の「実家の茶の間・紫竹」が10年の歴史を閉じる日がきた。運営委員会代表の河田珪子さんやお当番さんらは万感の思いを胸に仕舞い、いつもの笑顔でこの日を迎えた。
「ありがとうね!今日まで」「本当にお世話になりました!ありがとうございます」―利用者が河田さんやお当番さんらに次々と声を掛ける。「こちらこそ、ありがたかったですて」「皆さんのお陰で今日までこれました。ありがとございました」とお当番さんらが言葉を返す。この日、「実家の茶の間」には、いつにもまして「ありがとう!」の言葉がこだましていた。
<玄関には地域への挨拶>
写真=実家の茶の間はいつもご近所さんとの関係を大切にしてきた。最後の日も玄関には地域へのご挨拶の貼り紙が…
活動最終日となるこの日も「実家の茶の間」は70人ほどの方たちでごった返していた。誰が来ても分かるように、いつも開け放たれている玄関には「地域の皆様へ 10年間 大変おせわになりました」と大書された紙が貼られた。そして、これまで「終了まであと…回」などと書かれていた床の間のボードには、「本日が最後の茶の間になりました 10年間ありがとうございました」とチョークで丁寧に書かれた文字があった。
写真=実家の茶の間最後の日。ボードには丁寧なお別れの言葉が書かれていた
「地域包括ケア推進モデルハウス第1号」の看板を背負い、2014年10月から河田さんチームが新潟市との協働事業として活動をスタート。10年の歴史を積み上げた「実家の茶の間・紫竹」が大団円を迎える日がとうとうやってきた。「みんなの居場所」として、「助け合いの拠点」として、先進的な取組みを続け、全国各地から視察・見学者が絶えなかった活動にいったん終止符を打つ日だ。
<恒例の〝一人一言スピーチ〟>
この秋から恒例となった「一人一言スピーチ」が11時ごろから始まった。マイク代わりの花を手に、全員がそれぞれの想いを語り、実家の茶の間への惜別の言葉を述べた。
「私は今年、夫の7回忌、次男の3回忌を迎えます。やることのなくなった私を、知り合いと町内会長がここに連れてきてくれました。それから、茶の間が生き甲斐になったんです。今は、〝今日は実家の茶の間〟〝明日はあの茶の間〟と動き回っています」
「ここへ来ると、薬がいらないくらい元気になれる、大切な場所。ここがなくなるのは、たまらなく寂しいけど、これからもご近所から笑顔を絶やさないよう努めていきます」
「私は毎週、ここに寄せてもらってきた。ここがなければ、いつも家に一人でいるしかない女です。ここでおしゃべりができるから元気でいられる」
参加者は次々と実家の茶の間への感謝を語った。
写真=最後の日にも一人一言スピーチがあった。中には実家の茶の間を追い続けたNHKリポーターの姿もあった
<「ここを出発点にして、また生きてゆく」>
「実家の茶の間」に通ううちに〝生きる勇気〟をもらったという方も少なくない。
「私は東京にいったん出て、馴染めずに新潟に戻ってきました。心も折れてしまったのか、2年前はメソメソと泣いてばかりで〝赤ちゃんみたい〟と言われていた。でも、ここで活動した2年でこれだけ元気になりました。実家の茶の間は私の恩人です」
「ここに来る前は、精いっぱい強がって生きていました。でも、ここでみんなが助け合って生きている姿を見て、私は変わりました。今は、困った時は〝助けてください!〟と口に出せるし、〝お互いさまよね〟とも言えます。ありがとうございました」
「10年前、ここの修繕が始まった時、〝何ができるのかな〟と軽い気持ちで見ていたけど、ここに来るようになったら友達がいっぱいできて、私の生き甲斐になった。ここがなくなるのは寂しいけど、ここを出発点として、〝また、生きていかなきゃ〟―そう思っています」
写真=実家の茶の間の活動を描いた絵本も出版された。制作を指揮した清水義晴さんは出版を前に世を去り、夫人の由美子さんが絵本を手に挨拶した
<全国から別れを惜しむ人が…>
この日も東京から、三重から、県内各地からと別れを惜しむ方が顔を見せた。
「三重県の菰野町で茶の間や、助け合い組織の〝お互いさま〟をやっています。河田さんや皆さんには本当にたくさんのことを教えてもらいました。三重県からも助け合いを広げていきます」と菰野町の安田順子さんが言えば、東京の公益財団法人「さわやか福祉財団」で新潟との窓口役を務めてきた鶴山芳子理事はこう語った。
「実家の茶の間の最後の日には絶対に来たいと思っていました。いま、皆さんのお話を聞いていて、改めて〝皆さんにとって本当に大事なところだったんだな〟と感じました。うちの職員も河田さんたちから大切なことを教えていただいた。これからも河田さんチームの活動を全国に伝えていきたい」
<引き継がれるバトン>
県内の福祉関係者にも河田さんらの取り組みは引き継がれていく。実家の茶の間には保健師さんのほか、作業療法士さんも早くから出入りするようになっていた。そのメンバーの一人は「10年前、河田さんと知り合うまでは、体を悪くした方を私たちが治療しても、その方が退院された後、家でどういう生活をされるのか、まったく分からなかった。河田さんに一から教えてもらい、また、実家の茶の間に来る方の様子を見せてもらい、初めてその方たちのことが分かるようになった。今も時々ここに来ますが、ホント、第二の実家のように温かく迎えてくれる」と関係を語る。また、福祉の仕事に従事する男性は「いま、認知症の方が尊厳をもって生きていけるように法律が整備されていますが、私はここがモデルと思っています。色々なことをここで学ばせてもらい、それを福祉現場に持ち帰らせていただいています」と感謝していた。
<「陰で支えてくれた方々に感謝します」>
全員が一通り発言を終えると、参加者から「河田さんもお話して」とリクエストが出た。「私はもう何回も話しているから…」と躊躇していた河田さんが、立ち上がった。「最後ですので、今ここにはいらっしゃらない方、陰で支えて下さった方にもお礼を申し上げたい。例えばここをオープンする時に色々なものを寄付してくださった方々、駐車の便宜を図ってくれたご近所の方、賛助会員として10年間駐車場の借り上げを支援してくれた皆さまたちですね。本当にありがとうございました」と河田さんは感謝の弁を述べ、こう締めくくった。
写真=実家の茶の間運営委員会代表・河田珪子さんが万感の想いを込めて挨拶された
「ここで皆さんと過ごせたこと、この10年は私の一生の思い出です。本当にありがとうございました!」
10年前、河田さんらは「実家の茶の間・紫竹」を始めるに当たって、「この事業は新潟市との協働事業とする」「単なる委託事業ならお断り」との気持ちを頑固に貫いた。その効果はやはり大きかったようだ。行政には行政の役割、市民活動には市民の想いがある。補助金や助成金に頼るのではなく、広く共感の想いを集め、「お互いさま」「役に立たしてもらって、ありがとう」との気持ちが育ったからこそ、新潟での取り組みは10年間続き、大きな実をつけたのではないだろうか。
<これからも取り組みは続く>
写真=実家の茶の間での最後の昼食。みんなしみじみと味わった
「実家の茶の間・紫竹」の活動は、こうして10年の幕を閉じた。しかし、河田さんらの取り組みが終わったわけではない。「11月に入ったら、ここの整理をみんなでやりましょう。そして、12月の第3日曜日からは石山地区公民館で月一回、『地域の茶の間』をやることにしているから、みんな、また会えますよね」と河田さんは明るく締めくくった。
写真=代表の河田珪子さん。最後の日まで「実家の茶の間」の縁を大切にされていた
さらに、「実家の茶の間」の活動を糧として、「身近なところで新しい居場所をつくる」人もいるし、既に活動を始めた方もいらっしゃる。実家の茶の間で蒔かれたタネは地域に、そして全国にと広がっていく。
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