助け合いの歩み「第2章」

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*新潟の助け合いの歩み3*
―河田珪子さんの目指す
「歩いて15分以内の助け合い」―

*第2章 河田珪子さん 助け合いの道のり*

◆「まごころヘルプ」から「うちの実家」まで◆

<「有償の助け合い」の創始者 河田珪子さん>

「実家の茶の間運営委員会」の世話人代表が河田珪子さん(76)だ。河田さんは30年以上、「住民同士の助け合い」にさまざまな形で取り組んできた。新潟県の有償の助け合い活動の創始者と言える。その生きざまはこのブログで詳しく紹介するが、まず最低限の経歴を紹介しておこう。

河田さんは1944年新発田市生まれ。1964年に結婚し、新潟市・長岡市で暮らした後、夫の転勤で大阪に引っ越した。そこで20年以上平穏に暮らし、子育ての途中から大阪府社会福祉事業団の職員として特別養護老人ホーム(特養)で働いていた。社会福祉主事任用資格を持ち、寮母としての役割をやりがいを持って果たしていた。福祉・介護のプロとして働いていた河田さんに大きな転機が訪れたのは40代半ば。体調の不良を子宮がんと診断され、手術を受けた。それもICU(集中治療室)に入らねばならないほどの厳しい状況だった。ICUを出た後、寝返りもうてない状態で天井を眺めながら、河田さんはそれまで特養で世話をしていたお年寄りたちに思いを馳せていた。「死にかけて初めて、その方たちの痛みが分かった気がしました」と河田さん。がんとの闘病で3カ月間入院したことが、河田さんの人生観を変えた。

<両親の介護でUターン>

丁度その頃、長岡市で暮らす夫の親御さんが認知症になり、河田さんは介護のため、単身で新潟に戻ることを決断する。福祉の仕事が生きがいでもあった河田さんにとって、介護のため退職せざるを得なかったことは痛恨事だった。平成元(1989)年の4月、45歳の時である。その頃は介護保険制度もなく、「介護は家族がやるのが当たり前」の時代だった。それでも河田さんは「介護しつつ、自分の人生を大切にしたいし、介護される方の人生も大切にしたい。そんなシステムをつくっていこう」と心に決めていた。新潟で再就職することを考え、介護福祉士の資格も取っての帰郷だった。親の片方が入院せざるを得なくなった時を活用して、河田さんは在宅での介護を学ぶため筋ジストロフィーなど難病の方を紹介してもらい、その方の家に入って在宅での介護を学んでいった。その生き方が地元紙に紹介され、共感した女性たちが河田さんのもとに集まってきた。

<有償の助け合い「まごころヘルプ」>

翌90年、河田さんはその人たちと有償の助け合い「まごころヘルプ」を組織し、「頑張りすぎていませんか?」と呼びかけながら、「助け合い人生」を踏み出していく。河田さんは自らが有償の助け合い「まごころヘルプ」の手助けを受ける利用会員第一号となった。9人の提供会員から夫の両親の介護を手伝ってもらい、2人を看取ることできたそうだ。設立者が手助けを受ける第一号となったことで、「まごころヘルプ」の信用度が上がり、会員の輪は急速に広がった。

まごころヘルプは当初、入会金が8000円で年会費は2000円。提供会員は適切に手助けができるよう、最低40時間の研修を受けることが必要で、研修費も4000円と安くはなかった。これも河田さんが「活動と研修は車の両輪」と考えていたからだ。決してハードルが低いとは言えない提供会員の条件だったが、「自分もいつか手助けを受けたい」「学びを通して社会参加をしたい」との意欲に燃える大勢の方が提供会員に手を挙げた。お年寄りや障がい者の介護をはじめ、家事援助や出産前後の手助け、保育園の送迎、配食サービスなど実に多様な、利用会員の困りごとに応えるものとなっていった。ヘルプ利用料は1時間600円。それ以降は30分ごとに300円のヘルプ料となる。

<1時間600円の助け合い>

ヘルプの提供会員は1時間600円を「有償のボランティア」の対価として受け取り、うち100円は運営費として、まごころの事務局に入れる制度だった。まごころを運営するには家賃や光熱水費、通信費、保険、コーディネーターの交通費のほか、利用会員へのお詫びの品などが必要だった。仕事ではないため提供会員が活動時間を失念することも結構あって、その時にはピンチヒッターが事務所からタクシーで駆けつけることもあった。「困りごとのニーズに応えていくには、ランニングコストが思った以上に掛かってしまう」ことも、まごころで河田さんは学んだ。ランニングコストは、河田さんがその後の助け合い活動を「持続可能にしていく」上で、常に頭に離れないものとなる。

<みんなの居場所「地域の茶の間」>

「まごころヘルプ」を始めて間もなく、河田さんは居場所の大切さに気づいた。お年寄りや障がい者、三つ子ちゃんの親御さんら多くの人が、まごころの事務所に出入りするようになったのだ。「この人たちが気持ちよく憩える場所になれば」との思いが広がり、7坪の狭い事務所はいつの間にか「みんなが集える居場所」になった。平成3(1991)年のことだった。平成5年、まごころは後述するように新潟市福祉公社の自主事業となるのだが、その事務所も居場所となり、近くの南万代小学校の子どもたちも来るようになった。さらに、平成9年には河田さんが暮らす地域の自治会館に新しい居場所をつくった。地域の自治会や老人クラブが協力してくれたのだ。第一回の集まりに地元紙記者が取材に来て、居場所を「地域の茶の間」と名付けてくれた。その活動に注目した新潟県が「地域の茶の間」の取り組みを県の長期総合計画に入れたことで、茶の間は新潟市から新潟県、そして全国へと広がっていった。いま、県内の「地域の茶の間」は2800か所を数える。

<空き家が居場所に、「うちの実家」>

「茶の間」は質的にも進化していく。河田さんは市福祉公社を退職する1年前の平成15(2003)年、地域の空き家を活用し、宿泊もできる常設型の「地域の茶の間」を開設した。きっかけはお盆の前に「地域の茶の間」に集っていたお年寄りたちとの会話だった。「お盆になって、みんなが里帰りしてくると、家の中のどこにいたら良いか、分からんなるて」「墓参りも、もう一人で行けねなったしねえ」「このまま、ここで泊まりたいて」―そんな話を聞いているうち、河田さんは「じゃあ、泊まれる茶の間をみんなでつくろうか」と口に出していた。

その頃、河田さんには気になっていることがあった。住宅街に空き家が増えてきたことだ。社会の変化に伴って、「空き家問題」は全国的に広がり始めていた。「空き家は壊して駐車場にされても自治会費が入らなくなるし、空き家のままだと、ごみや除雪、そして火事のことが気になる」と、多くの地域で問題が表面化し始めていた。「夫の両親が住んでいた長岡の家も空き家になって、ご近所に迷惑を掛けていないか、気になった経験もある。空き家を活用して、茶の間をつくれないか。そう考えたんです」と河田さん。早速、茶の間の参加者に「空き家探し」を呼び掛けた。格好の空き家がすぐ見つかった。空き家の主は病院に入られていた。「空き家を茶の間として活用しておけば、その方が退院された時、『また、帰れる』って思っていただける。その方にとっては『思い出の家』ですものね。そんなこともあって、その家を選びました」。

写真=「うちの実家」のアルバムから。左が河田珪子さん

<「うちの実家」を10年運営>

それが泊まることもできる、常設型の「茶の間」の始まりだった。河田さんの取り組みは、常にニーズに裏打ちされているが、それと同時に「社会的課題」になりつつあった「空き家問題」にいち早く対処する取組でもあった。河田さんたちは「うちの実家」と名付けて、仲間たちと10年間、税金を1銭も使わずに運営した。これが「実家の茶の間・紫竹」の原型と言える。「うちの実家」を立ち上げた頃、新潟市では「健康福祉都市にいがた」という資料をつくった。その資料の作成作業中、市から河田さんに依頼がきた。それは「支え合う地域づくりを」とのタイトルで1章を付け加えることで、当時はあまり耳慣れた言葉でなかった「地域住民による支え合い」がテーマだった。

<失われた「家族機能」をどうする>

「なぜ、住民同士による支え合いが大切なのか」というと、昔は当たり前にあった「家庭機能」や「地域機能」が急速に失われたからだと河田さんは言う。以前は「育児・介護・看護・冠婚葬祭・家事・仕事」などは家庭や地域で賄っていた。それらをみんな外部へ出して、日本は高度経済成長を成し遂げていった。例えば、洗濯はクリーニング店に任せ、今はコインランドリーがその機能を果たしている。「いつまでも地域で安心に暮らしていくには、家族機能や地域機能をないがしろにしてきた自分たちの暮らしのことをしっかりと意識し、地域での支え合いをつくっていかないとこれからの社会は大変なことになる」―それが河田さんの問題意識だ。「日本全国から家族機能、地域機能が失われてきている。『この機能を取り戻そう』と言っても、昔の田舎に戻すことはみんな望んでいませんよね。あの、息苦しいような関係ではなく、多様な生き方を認めて、必要な時には『助けて!』と言い合える関係性を育んでいきたい…。私はずっとこのことを話し、そのことを実践してきたつもりです。まごころヘルプを立ち上げた時から同じです。それは変わらない」と河田さんは言う。

<「福祉人材」を30年間育てる>

河田さんは、そんな思いを実践活動に移すと同時に、「福祉専門職」を育てる活動にも力を注いでいた。あまり知られていないことだが、河田さんは新潟大学医歯学部などの非常勤講師として社会福祉士の研修に当たっていた。テーマは「地域福祉」「職業倫理」だった。県内のテクノスクールの講師としても活動し、幅広く「福祉の職業人を育てる」教育に当たった。現在も介護労働センターやシニアカレッジ新潟(旧県高齢者大学)の講師をしている。また、普通の家で家具などを利用した介護技術研修にも力を入れてきた。介護のために退職せざるを得なかった、自らの切ない体験を踏まえて、「介護のために仕事を辞めずに済むように」「介護退職で家族がバラバラになることがないように」との思いを抱き続けてきたのだ。福祉人材を育てることは、大阪から帰って30年となる河田さんのライフワークの1つの柱となっていく。

<「まごころヘルプ」のその後>

河田さんが立ち上げた「まごころヘルプ」は、助け合いのニーズ急増に応えるため、92年からは市福祉公社の組織に入り、その自主事業の位置づけとなった。河田さんは2004年に退職するが、その時の「まごころヘルプ」の全会員数は2550人(利用会員1048人、提供会員1227人、賛助会員は団体20、個人255人)に成長していた。河田さんは、有償ボランティアを新潟に根付かせることに尽力し、全国からも「まごころヘルプ」の活動は注目されるものとなっていた。しかし、河田さんが退職した後は介護保険の上乗せサービスとなっていき、「住民同士の支え合い」の思いは失われていくことになる。

<長年の体験とノウハウに裏打ち>

もう一度、整理しておこう。河田さんは福祉・介護のプロであり、がんと闘病しながら介護に打ち込んだ壮絶な体験を持つ。そこから「年々小さくなっていく家族機能を代替していくために助け合いが欠かせない」ことを実感し、仲間たちと有償の助け合い「まごころヘルプ」を始めた。その活動中にみんなが集まれる居場所の大切さに気づいた。その居場所が「地域の茶の間」から「うちの実家」へと進化し、今は新潟市との協働事業「実家の茶の間・紫竹」で実践に取り組んでいる。それらの活動と並行して、河田さんは福祉人材を育てる教育者としても経歴を積んだ。その知識の蓄積が実践活動の裏付けとなっていたからこそ、活動の輪が広がってきたとも言える。「実家の茶の間・紫竹」の素晴らしい居心地の良さは、河田さんたちの長年の経験と知識、運営ノウハウに裏打ちされているのだ。

<「実家の茶の間」が産声>

私たちが「実家の茶の間・紫竹」を訪れた日、河田さんは明るい、ひまわりのような笑顔で私たちを迎え入れてくれた。その河田さんから「実家の茶の間・紫竹」を立ち上げるまでの経緯を聞いた。河田さんは10年間の「うちの実家」の活動に一端ピリオドを打ったが、そこに通っていた方たちとの交流が続けられるよう、新潟市の公民館で居場所を始めた。そこを「実家の茶の間」と名付けていたそうだ。さらにご近所の困りごとを話し合い、その解決策を考え・実践する「ご近所談義」を始めた。次いで多職種が集う「夜の茶の間」や普通の家で暮らし続けるための「介護技術研修」など、ユニークな活動を続けていた。さらに全国各地から、温かい居場所をつくる助言を求められ、講演に飛び歩く毎日だった。各地で展開されている「地域の茶の間」の運営改善や、立ち上げ支援について助言を求められることも多かった。「『うちの実家』の様子を写真で見てもらったりしても、話だけではいま一つ雰囲気が伝えられない」と、もどかしさを感ずることもあった。

<「福祉の土壌を豊かにする役割」>

一方で、超高齢社会は進行し、地域包括ケアシステムの本格導入が迫っていた。そして、河田さんたちが運営してきた「うちの実家」が10年の歴史に幕を閉じる2013年3月、国の「地域包括ケア研究会」の報告書が出された。そこで示されたのが、冒頭の章でお示した=図4=だった。あの3枚の葉っぱ(医療・看護、介護・リハビリ、保健・予防)と植木鉢に入っている土壌(生活支援・福祉サービス)の図を思い出してほしい。この図を見て、河田さんは改めて自らの役割を認識した。「私の役割・使命は、植木鉢の土を豊かにすることなんだ。生活支援・福祉サービスの土壌をね。私が大阪から帰ってきた時、この土は瓦礫だらけでした。でも、その頃とは住民意識も大分変ってきた。この土壌をさらに豊かにして、3枚の葉っぱを元気にするのが私の役目なんだーそう思ったんです」。河田さんは当時を振り返る。

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