*実家の茶の間 点描*
2022年12月29日
―10周年へ、みんなで頑張ろうね!―
―市長との面談を機に、目標を確認―
<当番チームへの問いかけ>
12月に入って「実家の茶の間・紫竹」の初めての運営日となる5日(月)。運営委員会代表の河田珪子さん(78)は、この日顔を出したお当番さんに語り掛けた。「ここを立ち上げる時から、『10年、みんなで頑張ろう』と言ってきましたが、改めて気持ちを固めました。『再来年の10周年までは頑張る』ってね。それから先のことは、まだ分からない…。それでも皆さん、これからも一緒にやってくれますか?」と。河田さんの表情は明るく、何か吹っ切れた感じだった。
お当番チームはみんな、当然のように河田さんの言葉を受け止めた。「10周年まで頑張る―それは私も同じ考えでした」「最初から、そうおっしゃっていたじゃないですか」と、お当番さんたちは口々に語った。会計を担当する藤間優子さんも、お当番の日程を調整する長島美智子さんも、みんな同じ思いだった。ここ「実家の茶の間」は新潟市で最初の「地域包括ケアモデルハウス」の位置づけだったが、最近の3年近くはコロナ禍の影響が大きく、茶の間として頑張ってきてはいるものの、そのほかの活動は思うにまかせなかった。中でも身近な地域で助け合う「お互いさま・新潟」が休止状態にあることは、河田チームの最大の気がかりだ。研修や視察で「実家の茶の間」を訪れる方もコロナ前に比べれば、大きく減っていた。そして、実家の茶の間を運営委員会と協働運営している新潟市は今後をどう考えているのかも気になっていた。
写真=年の瀬を迎えた「実家の茶の間・紫竹」の様子
<8周年に中原市長の姿>
「自分たちだけの思いだけでは今後を決められない」―微妙に揺れる部分を含みながら、実家の茶の間は10月に開設8周年を迎えた。運営日の17日(月)と19日(水)には利用者や地域の方が集まり、8周年を祝った。これまでの周年事業にはいつも新潟市長が参加していたが、今回は新潟市長選ともろにぶつかっていた。「今年は無理だわね」と誰もが思っていた時、「中原市長は19日午後一番で茶の間に顔を出します。10分ほどの滞在になりますが、ご容赦ください」と中原陣営から連絡が入った。半信半疑の人もいたが、中原市長は予告通り姿を見せた。河田さんの案内でこれまでの周年事業の写真パネルを見たり、8周年記念の利用者アンケートの説明を受けたりした。
予定時間を過ぎて中原市長が帰ろうとした時、ハプニングが起きた。いつも会合に実家の茶の間を利用している地域の老人クラブ会長の宮田久夫さんが、「市長さん、ここは地域にとっても大事な所なんです。なくさないで下さい」との〝陳情〟だった。ちょっと驚いた表情を見せた中原市長だったが、いつもの笑顔に戻り、実家の茶の間を辞して、「選挙戦」に戻った。
<中原市長から面談の依頼>
迎えた23日の新潟市長選の投開票日、結果は中原市長の圧勝に終わった。それから間もなくして、河田さんのもとに「中原市長が河田さんとの面談を希望している。日程を調整したい」との連絡が市側から入った。河田さんは、ちょっと戸惑ったという。「市長さんからは、今後に向けて私たちの考えや要望を聞きたい、という趣旨だと聞きました。でも、私たちからお願いすることは特になく、むしろ協働運営者の新潟市が10年に向け、あるいはその後について、この場所をどうしていきたいのか、そこをお聞きできればと思っていました。でも、コロナ禍で先が見通せない中、今そこまで市に求めるのも酷かもしれないし、こちらのために時間を割いてくださるのはありがたいこと。喜んで、面談させていただくことにしました」と河田さん。
<「10年に向けて、よろしく」>
面談の日は12月2日に決まった。「どんな展開になるのか…」。ちょっぴり不安な気持ちも交じりながらなら河田さんは中原市長にお会いした。中原市長は笑みを浮かべで河田さんを市長応接室に迎え、実家の茶の間の活動についてねぎらった。「今年1年、そして開設以来8年間の皆さんの活動、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。10周年に向けて、あと2年、これからもよろしくお願いします」。そう中原市長は語り掛けた。
今回の面談の意義について河田さんは、「10周年に向けて、しっかりと活動していきましょう、との市側の意志をはっきりお示しいただき、『私たちも一生懸命やっていきます』とお答えした。協働運営者同士が互いの気持ちをきちんと確認できた―それはすごい前進だし、胸の中がすっきりしました」と語る。市の方針が明確に示されたことで、河田さんはお当番チームや利用者に「10周年までしっかりと頑張っていこう」との呼びかけることができるようになった。その呼びかけはお当番チームのほぼ全員に伝わった。「異議はまったくありませんでした」と河田さんは言う。
写真=利用者の方と語り合う河田珪子さん(左)
<利用者の思い、やはり複雑>
一方で利用者の気持ちは揺れている。「何とかして、ずっと河田さんたちからやってほしい」との声は今も根強い。12月14日、記者が茶の間に出向いた折に利用者の思いを聞いてみると、みんな、次々と口を開いた。「10周年まで間違いなくこの場がある―これには本当に安心しました。でも、その後、ここがなくなったら、私たちには行く場所がない。家で寝ているしかなくなってしまう」と言う方。「どうしても河田さんに続けていってほしい。ここは地域にとっても大切な場となっているんだし…。米寿までは頑張ってほしい」との意見。「河田さんが代表でなくなっても、時々顔を見せてくれさえすれば今のチームでここはやっていける。だって、河田さんが会議などで留守の時も、しっかりと運営されているんだから」などの声が相次いだ。
<「20025年からが本番よね」>
そんな声を聞きながら、河田さんは今後のことを考え続けているようだ。特に気になっているのは、国が本格的に地域包括ケアシステムを実施する2025年からのことだ。「だって、2025年からが本番になるわけですよね。でも、コロナ禍でこれだけおカネを使ったんだから、地域包括ケアの推進が財政面で制約されていくことは当然予測されます。一方で、家族がお年寄りを支えるなどの家族機能はますます失われていく。そうすると、やっぱり、私たちが目指した住民同士の助け合いが重要になるんじゃないでしょうか。そのための『助け合いの気風育て』が大切になるのですよね。でも、その取り組みは全国どこでも遅れている―今は、そういう状況じゃないでしょうか」と河田さんは言う。
写真=実家の茶の間に掲げられた年末年始のご案内。ご近所への謝意も書き込まれていた
<これまでの取り組みをメモに整理>
そんな中で、河田さんは10周年への2年弱でやることも決め始めた。まずは「実家の茶の間・紫竹」が地域包括ケア推進のモデルハウスとして取り組んできたことと、その到達点を明らかにする作業だ。河田さんは今、実家の茶の間が取り組んできたことをまとめるメモづくりに取り掛かっている。実家の茶の間は「地域の茶の間」のモデルだけでなく、地域包括ケアを軌道に乗せる準備をする「モデルハウス」であり、さまざまなことに取り組んできたからだ。これまで河田チームは新潟市と協働で「茶の間の学校」を運営し、身近な困りごとを助け合う人材育成の場となる「助け合いの学校」も始めた。実家の茶の間では、利用者同士が困りごとを助け合うことは当たり前になり、有償の助け合いの仲立ちに利用回数券が活用され「実家の手」と名付けられている。そして、大きな到達点がご近所同士で助け合う「お互いさま・新潟」の発足だったのだ。
地域包括ケアの推進役となる生活支援コーディネーター(SC)の中でも感度の良い方は「実家の茶の間の助け合い機能」に着目し、地域にどんな困りごとがあるかを河田チームの下で学び始めていた。実家の茶の間はSCさんの実践研修の場ともなっていたのだ。「これまでの取り組みの到達点を整理し、その到達点から何を残し、何を次につなげていけば良いのかーここを考える作業が大切ですよね。これは私達だけでなく、新潟市チームにも一緒に考えてほしい」。中原市長との面談の後、河田さんは10周年の後のことを考え始めていた。
<青空記者の目>
2022年師走。新潟市は何度も大雪に見舞われた。実家の茶の間の運営日には、その日の当番ではない方も含めたお当番チームやサポーターが朝9時前にやってきて、雪のけをするなど、茶の間を10時に開ける準備をしていた。このパワーが10周年までは続くことが今回、確認された。河田さんは、「モデルハウスとしての役割は10年で終わりますが、地域がその後もここを茶の間として存続させるお気持ちなら、それは可能かもしれません。ここは茶の間としてだけでなく、自治会や地域の老人クラブ、踊りの会の集まりの場などにも使ってもらっている。こども食堂の役割も果たしていますよね。それを今後どうしていくか…。10周年にはまだ2年近くあるから、地域の方や市役所と一緒に考えていくことですよね」と語るのだった。行政から見ると「実家の茶の間・紫竹」は小さなハコ物かもしれないが、果たしている役割は大きいーそう感じる年の瀬となった。
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