*茶の間再開17*
―「運営の大きなヒントいただいた」-
―近隣からの視察、徐々に受け入れ―
8月に入り、再開した「実家の茶の間・紫竹」では、新型コロナウイルスの感染に気をつけながら、近隣からの視察を徐々に受け入れ始めた。まず、「実家の茶の間・紫竹」を言わばモデルとして「茶の間」の開設準備を進めている弥彦村の関係者を受け入れた。次いで、8月26日には聖篭町から2人が視察・研修にやってきた。町の社会福祉協議会(社協)の荒井雄太主事と、「お茶の間・はすがた」を運営している佐藤サチ子さんだ。
<「みんなで除菌、感心しました」>
2人は、朝のお当番さんミーティングから参加。熱心に実家の茶の間の運営について学んでいった。一方で、実家の茶の間運営委員会代表の河田珪子さんらも、活発に意見交換する中で、2人から聖籠町での「居場所」の現状について話を聞いていた。聖籠町には10か所の居場所があり、さらに3か所ほど増やそうとしていたところにコロナ禍がやってきた。3月から6月まではすべて活動を休止し、7月から再開するところが出てきた。
地域の公会堂を使っている「お茶の間・はすがた」は、7月初めに役員会を開き、善後策を協議した。「その席で、活動時間を短くしてもやりたい」「お昼が出せなくなっても再開したい」との意見が多く出、「昼食はやめて、午前中の2時間で再開する」ことを決定した。佐藤さんは「みんな、集まる場を求めていることが分かりました。休止する前には35人近く集まっていましたが、再開初日は28人来られた。うちは公会堂を使っているので、スペースは広い。それでも、密にならないよう、気を配りながらやっています」と言う。実家の茶の間で勉強になったのは、「衛生面への配慮が徹底しています。特にテーブルなどの除菌を、お当番さんだけでなく、みんながやっていますね。その辺が勉強になりました。気軽に集まれる日が、早く戻ってほしいですね」と語っていた。
<「再開できない理由は何か?」>
聖籠町社協の荒井さんは、河田さんと熱心に話し込んでいた。
写真=聖篭町社協の荒井雄太主事(右)と話す河田珪子さん
聖籠町では7月から再開したところ、秋から再開を考えているところ、再開のメドがまだ立っていないところに分かれている。「茶の間が再開できない理由を調べていくと、いいかもしれないですよ。密を避けられない、スペースの問題?お昼が出せないから?活動時間を短くして参加費を前のようにいただけず、運営費に問題があるから?除菌などの消毒にもおカネが掛かりますしね。集まる人数が少なくなると、『さぁ、皆さん』と一斉に体操をやったり、スケジュールをこなしたりしていたとこは運営が難しくなるかもね」と、河田さんは荒井さんに話しかけた。
「お茶の間・はすがた」をやっている伊藤さんのように、「地域で喜ばれることを何かやりたい」という強い思いが運営者にないと、コロナという逆風の中で茶の間を再開するのは容易ではない。衛生面を担保する消毒剤を誰が負担するのか、検温計は誰が調達するのか、参加者が以前より少なくなって参加費が減少する中で、財政面の基盤も心配になる。「主体性を持ってやってきたところは、何とか再開できている。うちは、お当番さんも手挙げ方式で自主的にやってきてくれていましたから」と河田さん。
<一人ひとりの関係づくり>
2人の視察・研修は昼まで続いた。荒井さんは、「寄せてもらって、本当によかった。参加されている方が自主的に動いている点が素晴らしい」と感想を語っていた。河田さんは、「コロナの前のようには、時間を掛けても戻れないかもしれない。新しい形でも良いから、一人ひとりの関係づくりをしていかないと…。外に出れず、関係まで切れてしまっては、体も心も衰えていってしまいますからね」と河田さんはこれからを見詰めた。
<青空記者の目・特別編>
これまで、新型コロナウイルスの感染が全国に拡大する中で、新潟市の地域包括ケア推進モデルハウス第1号である「実家の茶の間・紫竹」が、いかに再開の日を迎え、どのようにして活動を続けているのか、その日々を追い、報告させてもらった。
<大きく枝葉広げた活動>
「実家の茶の間・紫竹」は、私が新潟市長時代の2014年、任意団体「実家の茶の間運営委員会」代表の河田珪子さん(76)から提案を受け、新潟市と実家の茶の間運営委員会の協働事業として始まったものだ。新潟市東区紫竹にあった空き家を活用した活動は、5年間で大きく枝葉を広げ、全国から注目されるようになった。
一方では、「あまりに大きく枝葉を広がったため、活動の全体像が見えにくく、説明しきれない」との声も関係者から出てきた。確かに活動6年目を迎えた地域包括ケア推進モデルハウスの取り組みは、みんなの居場所である「地域の茶の間」を原点にする活動から、「歩いて15分以内での有償の助け合い」を目指す「助け合い お互いさま・新潟」までウイングを広げ、「協働事業の言いだしっぺ」の相方であった私(前新潟市長・篠田昭)も、活動全体を説明することが困難なほど成長していた。
<活動の全容を再把握へ聞き取り>
協働事業をスタートさせた責任者として、また、元々は地方紙の記者を務めていた者として、「地域包括ケア推進モデルハウス第1号『実家の茶の間・紫竹』の全貌を把握し直し、報告する役割があるのでは」と考え、今年の年明けから「実家の茶の間・紫竹」に通い、運営委員会代表の河田珪子さんらから話を聞き始めていた。
ちょうどそんな頃、日本でも新型コロナウイルスの感染が広がってきた。2月末、国は全国の小中高校に「3月から春休みまでの臨時休校」を要請するが、河田さんたちは、その要請の前に「実家の茶の間・紫竹」の活動を休止することを決めた。居場所としての活動を休止しても、河田さんたちコアメンバーは「実家の茶の間・紫竹」に詰め、さまざまな対応に追われた。私はこの期間、実家の茶の間に通い、河田さんたちから多くの有益な話を聞くことができ、それを記録にまとめてきた。
写真=「実家の茶の間・紫竹」の事務室で、問い合わせに答える河田珪子さん。今も全国から再開後の様子などについて尋ねる電話が絶えない
*新潟の助け合いの歩み・アーカイブに掲載*
―「実家の茶の間・紫竹」が
目指しているものを訪ねて―
<単なる過去の記録ではなく>
コロナ禍はまだまだ収まる気配がない。また、いつか「ポスト・コロナの時代」が始まっても、従来と同じ暮らしがそのまま戻ってくることはないだろう。しかし、超高齢社会が歩みを速める中で、河田さんたちの目指す「みんなの助け合いで、いつまでも安心に暮らせる地域をつくろう」との取り組みが、ますます重要性を増すことは間違いない。「実家の茶の間・紫竹」が再開し、穏やかな雰囲気が戻ってきている今、書き溜めた原稿を「アーカイブ」として、ブログ「新潟の青空記者 篠田昭のつぶやき」に掲載することにした。それは単なる「これまでの一つの記録」として残しておくものではない。「ウィズ・コロナ時代」、「ポスト・コロナ時代」に新しい助け合い活動を始める方々にとって、「助け合いの大切さ」の原点を確認し、活動の輪を広げるために大きなヒントが詰まっているものになると思うからだ。
<付記>
この記録は、今年1月から5月までの取材に基づき書いたもので、原則、「執筆当時のままの原稿」としました。執筆は篠田が中心ですが、一部、他のライターらの協力を得ましたので、第三者的視点の形で書いています。ブログの大項目は今後「アーカイブ」とし、中項目は「助け合いの歩み」に分類して掲載します。
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