助け合いの歩み「第6章」

新潟の助け合い

*新潟の助け合いの歩み7*
―河田珪子さんの目指す
「歩いて15分以内の助け合い」―

 第6章 地域包括ケアの「道標」 
◆「絵に描いた餅」を
どう実現するのか◆

<2025年に向けて、国からの要請>

新潟市は2017年までに全8区9か所に地域包括ケア推進のモデルハウスづくりを終えた。それぞれの地域にとっても貴重な「みんなの居場所」となって喜ばれる様子は、マスコミでも数多く取り上げられ、市民にも情報として届けられた。一方で、河田さんたちが運営する新潟市の基幹型地域包括ケア推進モデルハウス「実家の茶の間・紫竹」は、地域包括ケアを推進する組織づくりや人材育成にも大きな役割を果たしていくのだが、それが市民に知られることはこれまでほとんどなかった。この章では、国が進めようとする地域包括ケアシステムづくりに新潟市がどう対応し、河田さんたちがその動きをどう支援していったのか、検証してみる。

国は、何度か触れてきたように、団塊の世代がみんな75歳以上になる2025年までに、「重度な要介護状態になっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けられるよう『住まい・医療・介護・予防・生活支援』が一体的に提供される態勢の構築実現」を謳い、その態勢を「地域包括ケアシステム」呼んでいる。それが冒頭の章で紹介した2つの図である。再掲しておこう。

 

図=地域包括ケアシステムを説明した2つの資料
さらに目標年の10年前となる2015年、国は「地域包括ケアシステム」推進に向けて全国が具体的に動き出すよう、組織づくりと要員配置を自治体に求めた。市町村には広域を対象とする「第一層の協議体」と、日常生活圏を対象とするエリアに「第二層の協議体」を組織し、各協議体にはそれぞれ「生活支援コーディネーター」を配置することを要請したのだ。新潟市ではこれを受けて、「第一層」を行政区単位、「第二層」は基本的に複数の中学校区単位とすることを決めた。それと同時に、市民により親しまれるよう、国とはネーミングを変えた。「協議体」は「支え合いの仕組みづくり会議」、「生活支援コーディネーター」はこれまで紹介してきたように「支え合いのしくみづくり推進員」と呼んでいる。ここでもキーワードは「支え合い」だった。

<「絵に描いた餅」に近づく糸口>

国は、このように地域包括ケアの「理想の絵」を描き、「組織」と「要員配置」など理想に向かって進んで行く仕組みは提示した。しかし、これは当然のことながら「絵に描いた餅」でしかない。協議体の構成員や推進員には当初、「どうすれば国が目指す、地域での安心な暮らしが実現できるのか」―その道筋がほとんど見えていなかった。推進員らが自治体担当者に聞いても「国からの具体的方針はまだ示されていない」「皆さんで考えてください」などの要領を得ない答えしか返ってこなかった。責任感の強い関係者ほど悩み、何とか解決の糸口を探そうともがいていた。

<南区はどう動いたのか>

それは新潟市でも同様だったが、他の自治体と違ったのは河田さんから「支え合いのしくみづくりアドバイザー」に就いてもらい、地域包括ケアを推進するモデルハウスを2014年からつくり始めていたことだ。新潟市は、「新しい支え合いのしくみ」をつくる「推進役」と「推進の場」を持っていたことになる。そして、もう一つ大きかったのが地域包括ケアについての知識や実践例などに詳しい「公益財団法人・さわやか福祉財団」(堀田力会長)と新潟市が包括連携協定を結んでいたことだった。さわやか福祉財団は以前から、河田さんを「助け合いの実践者」として注目しており、その河田さんを「支え合いのしくみづくりアドバイザー」として起用するなど、地域包括ケアに熱心な新潟市の姿勢に共感していた。

 

写真=河田珪子さんたちの活動を紹介した情報誌。右側は「さわやか福祉財団」のものだ
また、新潟市が中心市街地や住宅地域など都市部と、田園地帯が広がる農村部といった多様な地域を持っているため、「新潟市と組めば、全国に通用するモデルができる」ことに着目し、自治体と初の包括連携協定を新潟市と結んでいた。それがどんな役割を果たしていったのか。新潟市での地域包括ケアの推進の動きについて、南区をモデルに追ってみることにする。

<独自に生活支援コーディネーター>

南区の実際の動きについて、二人からお話しを伺った。南区全体をエリアとする一層の支え合いのしくみづくり推進員・鈴木照子さんと、二層のうちで白根南部地域(白南、白根第一中学校区)をエリアとする支え合いのしくみづくり推進員・吉村弥寿江さん(70)だ。新潟市では、先に紹介したように、国が協議体づくりや要員配置を要請する前から「お年寄りが地域で安心に暮らしていける地域づくり」へ動き、「生活支援コーディネーター」を独自に配置していた。全国に先駆けた取り組みで、採用に当たる面接役は河田さんらが務めた。南区では、吉村さんが生活支援コーディネーターとして採用され、区全域での活動を始めていた。吉村さんはそれまで勤めていた職場を定年になってからヘルパーの資格を取り、訪問介護の仕事を始めた方だ。「一人暮らしの方、家族がいらっしゃる方、さまざまなお宅に入ってヘルパーをやってきました。私は介護保険の在宅サービスをやるわけですが、サービスと、そうならない部分の境目のとこで大変な思いをされている方のご苦労は、ヘルパーとして感じていました。『介護保険の枠外のことをやって差し上げられれば、本当に助かるのに』と思うことは多々ありました」と言う。「南区の生活支援コーディネーターを募集するとの話を聞き、当時は高齢者だけが生活支援の対象だったので、『お年寄りの世話をする点ではヘルパーの仕事と同じだ』と思って応募しました」と吉村さんは話してくれた。

<「包括ケアなんて、分からん」>

そこへ2015年、包括ケア推進に向けて国の新たな方針が示された。南区では同年秋、「一層の組織」をつくるための準備会を南区役所で開いた。鈴木さんは新潟市社会福祉協議会(社協)の職員で、その立場から準備会に参加した。「南区としては、一層の推進員を誰にするかがポイントになった。ヘルパーの経験がある吉村さんが以前から活動してくれており、『吉村さんがなってくれれば良い』との声がありました。でも、新潟市全体で一層の推進員は社協職員という流れになっていきました」と鈴木さんは経緯を説明する。

新潟市では結局、一層の推進員は市社協の職員か、そのOBが就くということで決着した。そして2016年4月、市社協から鈴木さんに「南区の一層の推進員」の辞令が出された。「本当にびっくりして、『私にはできない』と悩む日々でした。2013年ごろから『地域包括ケアをつくっていかなければ』と頭にはあっても、支え合いの現場は経験していない。『包括ケアは住民同士の助け合い』と言うけれども、地域の人にそう言っても『地域包括ケアなんて、言われても分からん』と言う状況でしたしね」と鈴木さんは振り返る。

河田さんは、一層の推進員選びの状況を見て、不安に思うことがあった。推進員は地域との関係が大事のはずだが、推進員は協議体の中から選ばれるのではなく、社協からの辞令で固有名詞が出てくる。「住民同士の助け合い」という目的を達成するためには、地域とその目的を共有することが重要だが、辞令を交付された推進員の中には地域との関係が希薄だった人もいた。また、「推進役」にしては助け合いの立ち上げだけでなく、助け合い活動の経験がほとんどない人もいて、年齢もばらばらだった。河田さんは新潟市の「支え合いのしくみづくりアドバイザー」として、「地域との目的共有」ができていくかについて目を配っていく。

<「初年度は切なかった」>

鈴木さんの一層の推進員としての最初の仕事は、二層のエリアを確定し、そのエリアごとの推進員を選任することと、南区の包括ケア推進モデルハウスを開設することだった。南区は二層を3つのブロック(白南・白根第一中学校区、白根・白根北・臼井中学校区、月潟・味方中学校区)とし、3人の推進員探しに入った。それと同時に「地域包括ケア」の意味を住民に知ってもらうために地域を走り回った。さらに「さわやか福祉財団」から担当者を派遣してもらい、勉強会を年に3回開催した。「包括ケアは『住民主体でやっていかなければ』ということですから、何とか住民の方に理解してもらわないと。でも、私たちも、役所の担当者も、どうやって包括ケアをつくっていくかを説明できない。二層の推進員探しを地域や関係団体に投げかけても具体名が出てこない。初年度は切なかったですね」と鈴木さん。そんな鈴木さんを、河田さんは、自らも関わるモデルハウスづくりや、さわやか福祉財団とのパイプ役として支えていく。

<「福祉のプロ」の弱点>

河田さんはこの頃、新潟市が提起的に開催する「一層の支え合いのしくみづくり推進員会議」に「支え合いのしくみづくりアドバイザー」として出席していた。当初は様子を見ていたが、行政の担当者も推進員も「助け合いの現場」は知らない。「福祉のプロは、どうしても形をつくることに気を取られてしまうし、放っておくと会議は行政が仕切ってしまう。一層の推進員にとって大切なのは、地域とのパートナーシップを築き、助け合いを創り出すことであり、区役所や二層の推進員たちと連携できる良い関係をつくること。そこでちょっと口出しして、推進員が交替で会議を仕切る形に変えてもらいました。そうすると、前向きな提案や発言が出てきました。助け合いは、主体性が大事ですから」と河田さん。「支え合いのしくみづくりアドバイザー」はここでも力を発揮していた。

<「どうすれば、たどりつけるのか」>

南区では2017年1月、包括ケア推進モデルハウスが商店街の一角にある、かつての有名店「天昌堂」跡に決まり、運営が始まった。公募になった二層の推進員には吉村さんが手を挙げてくれ、白南・白根第一中学校区圏域の推進員となることが決まり、2017年度から鈴木さんと共に活動していくことになる。同年9月までに残る2人の二層推進員も決まり、南区はようやく態勢が整ってきた。「生活支援コーディネーター」として南区での活動経験がある吉村さんが加わったことで、鈴木さんにもやや明るさが戻っていった。しかし、根本的な悩みは晴れない。「どうすれば、包括ケアのあの絵の姿にたどりつけるのか、それが分からない。『住民主体の支え合い活動をつくっていく』との目標はあるので、地域との勉強会を重ねました。でも、『どうすれば良いんだ』と地域の方に聞かれても、自分が迷っているのだからきちっと説明できない。推進員はみんな悩んでいました」と鈴木さん。

<「真面目な推進員ほど苦しんでいた」>

「どうすれば、『住み慣れた地域で自分らしい暮らしを最後まで続けられる態勢』ができるのか」―いくら考えても、思いつかない答えを求めて多くの関係者が悩んでいた。市や区の担当者に聞いても、「それを考えるのが推進員の仕事でしょう」とはぐらかされる。たどり着くべき姿の「絵」はあっても、そこにたどり着くべき道筋が見えない。全国の先進事例を探しても、包括ケアを実現した地域はまだどこにもない。悩み抜いた人たちの「希望の星」となったのは、河田さんたち、「実家の茶の間・紫竹」の取り組みだった。

「新潟市の推進員をはじめ、色んな地域の方がここに来られました。推進員の方は最初、みんな暗い顔していてね。真面目な方ほど苦しんでいた」と河田さん。河田さんたちが「実家の茶の間・紫竹」の運営を始めたのも、推進員たちの研修の機会となることが大きな理由の一つだった。「住民同士の助け合い」を先導する立場の推進員たちだが、組織から辞令をもらうやり方が全国でも大半で、地域との関係が希薄な人が任命されることも少なくなかった。一方、河田さんたちが取り組む「茶の間」は、それをつくる段階から地域の方との関係づくりが始まる。その中でも推進員の最初の仕事となった各区でのモデルハウスづくりでは、行政をはじめ、地域の多くの方たちや団体との話し合い・連携が欠かせず、新潟の推進員は自然と地域との関係が強化されていった。その上、茶の間をやっていけば、そこに集まる方の困りごとが「見える化」され、実際の困りごとのニーズが把握される。「その困りごとをどうすれば手助けできるか」に心を動かし、行動することが容易になるのだ。

<「まさに目からウロコ」>

大阪・寝屋川市の担当者は関西での河田さんの講演を聞いて心を動かされ、「実家の茶の間・紫竹」を訪ねた。「ここに来て、まさに目からウロコでした。河田さんたちは、地域との関係づくりや、お年寄りの困りごと把握を優先されていたが、私たちは『どうすれば介護予防の場ができるのか』など形ばかり考えていました。ここでは居心地の良い場づくりをして、『結果的に介護予防になればいいの』と言う。本当に驚きの体験でした」と、その方は感想を語った。もっとも、河田さんたちの取り組みは「介護予防」や「健康寿命延伸」の面からも評価されている。「実家の茶の間・紫竹」が活動を開始して丸1年たった平成27年11月、厚生労働省が主催する「健康寿命をのばそう!アワード」の第4回表彰で「実家の茶の間・紫竹」の取り組みは優良賞を受賞している。各地で地域包括ケアを進めようとしている方たちにとって、新潟のモデルハウスは「希望の星」となっていく。

写真=「希望の星」となった「実家の茶の間・紫竹」の5周年記念式典。すごい賑わいだ
さらに、その役割と存在感を大きくしたものがある。それが「助け合い お互いさま・新潟」だ。有償の助け合いを「実家の茶の間・紫竹」の参加者だけに通用するチケット「実家の手」に限らず、「茶の間に参加しない人や、参加したくても行けない人も、困りごとを手助けし合えるやり方」を新潟市全域に広げていこうとの取り組みだ。それはまず、「助け合いの学校」の開設から始まった。

 

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