助け合いの歩み「第11章」

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*新潟の助け合いの歩み12*

―河田珪子さんの目指す

    「歩いて15分以内の助け合い」―

第11章 「お互いさま・新潟」の今後

◆この土地で安心に暮らすには

    「住民同士の助け合い」が欠かせない◆

<整ってきた「助け合い」の土台>

「助け合い お互いさま・新潟」が動き出して1年半。新潟市では、困りごとの電話相談態勢ができつつあり、「身近な地域での助け合い」の土台が整ってきた。そして、「お互いさま・新潟」の大きな狙いでもある「支え合いのしくみづくり推進員」(推進員)の実践研修の効果が上がっている。この「推進員」は、全国では「生活支援コーディネーター」と呼ばれ、包括ケアを構築する推進役として重要な役割を担っている。一層(新潟市では各区がエリア)と二層(日常生活圏・新潟市では複数の中学校区エリア)に配置されている「推進員」が「お互いさま・新潟」の事務局に当番で詰めることで、住民の困りごとニーズを実際に把握し、「助け合い」のつなぎ役の役割も果たせるようになってきた。一層の「推進員」を中心に、区ごとの「助け合い社会資源」のリストアップも進み、困りごとの電話相談では、地域の便利屋さんや移動販売などの情報もお届けすることができるようになってきた。

<新潟市のこれまでの取り組み>

新潟市と河田さんたちの取り組みを少し整理してみよう。①みんなの居場所であり、新たな茶の間の立ち上げや、ちょっとした助け合いを学ぶ実践学習の場でもある地域包括ケア推進のモデルハウス第一号「実家の茶の間・紫竹」の開設(2014年10月=2017年までに全8区9か所にモデルハウスを整備)②茶の間の効用を知ってもらい、身近な地域に茶の間を開設・運営する人材を育てる「茶の間の学校」の開設(2016年)③「実家の茶の間・紫竹」を舞台に、手助け・助け合いを進める有料チケット「実家の手」の活用スタート(2016年秋)④新しい支え合いの必要性を知ってもらい、支え合いを担う人材を育成する「助け合いの学校」の開校(2018年)―と、河田さんたちは新潟市と共にステップを踏んできた。そして2018年秋から「助け合い お互いさま・新潟」をスタートしたのだ。

 

写真=左は「うちの実家」の頃の河田珪子さんの写真。右は「地域の茶の間」の紹介。河田さんは新潟市の協働事業の前から様々な助け合いに取り組んでいた(「うちの実家 10年の記憶」より)

<「助け合い」に国も舵を切る>

その一方で国は、2025年までに「地域包括ケアシステム」を構築するため、2013年ごろから「一層と二層での協議体づくり」や、「生活支援コーディネーター」(新潟市では支え合いのしくみづくり推進員)などの「要員配置」を自治体に要請し、態勢づくりを急がせてきた。しかし、多くの自治体が態勢を整えることに精一杯で、肝心の「住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けられるよう」な支え合いの仕組みづくりは手つかずになってきた。

いま、国は介護保険制度の第8期基本方針(2021年度~23年度)の策定作業を進めている。そこには「2025・2040年を見据えた介護サービス基盤の整備」などと並んで、「地域共生社会の実現」が挙げられている。検討会の最終とりまとめには「地域共生社会の理念」として、「『支える側』と『支えられる側』という従来の関係を超えて、人と人、人と社会がつながり、一人ひとりが生きがいや役割をもち、助け合いながら暮らしていくことのできる、包括的なコミュニティ、地域や社会を創る」との方向性が示されている。「助け合い」を国も求めてきているのだ。また、「地域包括ケアシステムを支える介護人材確保及び業務効率化の取組強化」では、「総合事業等の担い手確保に関する取組の例示として、ポイント制度や有償ボランティア等」と記載され、「さらに講じる主な対策」については「元気高齢者等参入促進セミナーの実施」や「ボランティアポイントを活用した就労的活動の推進」などが挙げられている。これも河田さんたちが取り組んでいる方向と合致している。

<「家族機能」の補完目指す>

しかし、国と大きく違う点もある。国が今後は介護職などの専門職を「要介護3」以上の重度な要介護者に振り向け、「要介護2」以下の在宅介護を「元気高齢者ら有償ボランティア」に肩代わりしてもらう考えのようで、老人クラブなどを例示している。これに対し、河田さんたちは介護保険サービスの対象となっていない「困りごと」についても、「家に入っての助け合い」で解決を目指している。これは「失われてしまった家族機能」の補完を目指すもので、介護保険の枠を超越している。河田さんたちの取り組みが広がれば、介護保険制度の将来が厳しくなっていっても、より安心な暮らしが実現していく。また、「他人の家に入る」時の作法とかマナー・ルールを身に着ける「助け合いの学校」は、これから家に入っての助け合いを求めるニーズが増大していく中で、全国各地の参考になり、より重要な意味を持つだろう。

<軽度の在宅介護は住民で>

河田さんたちは、国の地域包括ケア担当者はもとより、「さわやか福祉財団」などの関係機関からさまざまな情報を取っているし、茶の間の視察に来た研究者や専門家からの情報も得ている。今後、国は「要支援」に続いて、「要介護」の生活支援も市町村事業にしていきたい方針であることは間違いない。この日も最新の資料を(資料C)を手に、河田さんは語り出した。「ほら、ここはまだ行政が相当絡んでいるけれど、ここからはもう住民が担い手なんですよ。そうやって、今まではヘルパーさんがやっていた訪問介護を住民がやっていくことにしている。国の資料には『老人クラブ』が数多く出てきているので、老人クラブや地域組織を当てにしているんじゃないでしょうか。『要介護3』ぐらいになると、専門職じゃないとできないし、一方では専門職も少ないから、要介護3以上など重度の人たちの介護は専門職にやってもらい、『それ以外は住民に』との方向性を打ち出そうとしていると思う。在宅介護の具体例を見ると、ヘルパーさん以外の普通の人にはできないことが一杯あるじゃないですか。それを当たり前のように、家族機能として住民がやっていくようにしていきたい。それが『助け合いの学校』が目指すものなんです」と、河田さんは近い将来の姿を思い描いた。

<「これから、みんなでつくっていく」>

新潟市では河田さんたちを中心に上記のような取り組みを進め、これらの土台の上に2018年秋から「助け合い お互いさま・新潟」の活動が始まった。モデルハウス第一号「実家の茶の間・紫竹」を事務局として活用し、困りごとの電話相談受付が動き出し、「家に入っての助け合い」が始まったのだ。この活動の輪に「支え合いのしくみづくり推進員」の有志が加わることで、「助け合いの現場」を知らなかった多くの推進員が実際に助け合いニーズに触れ、日々成長を遂げつつある。まだ地域と生活支援の数が限定的とはいえ、2020年に入ってからは困りごと相談の電話が数多く掛かってくるようになり、河田さんたちは手応えを感じていた。

「この助け合いは、さわやか福祉財団の堀田会長が言うように、全国どこでもまだやっていません。私たちも『これから、みんなでつくっていこう』と呼びかけている最中です」と河田さんは言い、「これからの生活支援ニーズの増大を考えた時、一番の課題は事務局経費や交通費などのランニングコストをかけずに持続可能な仕組みをつくること。それには、私たちが考える『お互いさま・新潟』のこの方式しかないと思います。ランニングコストを掛けない助け合いをどうつくるのか、このことに全国みんな困っている。だから、私たちのところに全国から視察が来るのだと思います」と河田さんは続けた。河田さんがランニングコストにこだわるのは、これまでの体験や見聞があるからだ。新潟市では、これまで各種の有償の助け合いのランニングコストについて、市政策調整官の望月迪洋さんらが調査を終え、いずれの場合も多額の運営費が必要となることを既に確認している。

<「大変な道を切り開いている」>

「家にまで入っての助け合い」を広域でやろうとしているところは全国にないようだ。このことについて、全国の事例に詳しい「さわやか福祉財団」の堀田力会長に聞いてみた。

<新潟市では、河田さんたちが「家に入って困りごとを解決する」有償の助け合いネットワークづくりに取り組んでいます。国は「日本全体をそうしましょう」と言っているんですが、これは大変に高いハードルです。厚生労働省がそう言っている意味も分からない自治体が多い中で、新潟市ではそこまで実践が進んでいる。大変な道を切り開いています。「家に入って助け合う」ということを普通にやっている所は全国にありません。小さい村や離島ならできそうだと思うが、家族や人間関係が色濃い所は、濃すぎて逆にできない。例えば1回、家に入って助けてもらったら、家のことが地域にみんな知れ渡った、ということでは2度と「助けて!」と言えなくなる。「家の中の秘密」は一切言わない、というマナー・ルールを守ることが必要なのですが、小さい地域ではそれができないくい。だから、河田さんたちの取り組みが貴重なのです>

家の中に入る時のマナー・ルールの重要性を指摘する堀田会長は、それだけに新潟の河田さんたちの取り組みに注目しているのだ。

<上野千鶴子さんも高い評価>

さわやか福祉財団は、国の介護保険制度改革について一定の評価をしながら国に助言・提言する立場だ。一方では、国が進める介護保険改革に対し厳しい見方をする人たちもいる。東大名誉教授で社会学者の上野千鶴子さんは、評論家の樋口恵子さんらと「介護保険が危ない!」(岩波ブックレット)を出版した。そこでは「このままでは、親の老後も、あなたの老後も危ない」と介護保険の現状に警鐘を鳴らしている。国や行政の批判をするだけでなく、「自らができることを実践していく」との河田さんたちの立場とは大きく違いがあるように見えるが、上野さんは河田さんたちの取り組みについても評価している。令和元(2019)年に東京・八丈島で講演した際にも、「福祉に熱心な自治体」の例に新潟市を挙げ、「地域の茶の間」など、河田さんたちの取り組みを紹介していた。上野さんたちが介護保険という「共助」の後退を憂いているのに対し、河田さんは「自助に近い互助」を重視している。立場の違いはあっても、お互いを認め合っているのだ。「住民の暮らしやすさには、自治体の姿勢が大きく影響する」点を上野さんは強調し、市との協働がうまくいっている例に新潟市と河田さんたちの取り組みを挙げて説明していた。

写真左=上野千鶴子さんらの共著「介護保険が危ない」(岩波ブックレット)と、写真右=「うちの実家 10年の記憶」の一こま。上野千鶴子さんやさわやか福祉財団の堀田力会長も写っている

<「口コミで広まるのが一番」>

話を新潟市の助け合いに戻そう。「お互いさま・新潟」の事務局の壁には、区ごとの「助け合いの学校」修了生を中心とした「助け合いの担い手」の名簿が貼り出されている。西蒲区や南区のように、人口に比べて名簿数が大変に多い区もあれば、それほどでもない区もある。「お互いさま」の相談も中央区のように数多く寄せられている地域もあれば、まだ少ない地域もある。「こういう助け合いは、やっぱり一歩一歩ですね。時間が掛かるけれど、地域の中で『良かったよ』『助かったよ』と口コミで広まるのが一番なのね」と河田さん。河田さんたちは、各区の地域特性を活かし、「支え合いのしくみづくり推進員」を支援しながら、たゆむことなく歩みを進めているのだ。

<ボランティア保険をどうする>

「歩いて15分以内の助け合い」は着実に進んではいるが、一直線にはいかない。協働事業のパートナーである新潟市との関係も、そう簡単ではない。河田さんたちは「助け合いの中間経費をできるだけ掛けずに、持続可能にしていく」ことを目指すが、新潟市には行政としての立場がある。例えば、「家にまで入っての助け合い」をやっていく中で、事故が起きた場合の責任問題だ。新潟市の担当者は「万一に備えてボランティア保険への加入が必要」と言い、河田さんたちは「助け合いを持続可能にするには、少しでも経費を削っていくことが大切。助け合いはお互いの信頼関係で成り立っており、『助け合いの学校』で、しっかりとルールを学んでもらっている方だけを紹介している」との立場だ。この折り合いはまだついていない。

ここで、どんな知恵が出せるのか。例えば、みんなの居場所としての「実家の茶の間・紫竹」や、「茶の間の学校」、「助け合いの学校」の運営までを市と「実家の茶の間運営委員会」の協働事業とし、助け合いの分野は「実家の茶の間運営委員会」の単独事業として切り離すことは不可能なのだろうか。河田さんたちの取り組みは、「失われてしまった家族機能」を、住民同士の助け合いで甦らせようとしている。そこに、保険は馴染むのだろうか。河田さんも「昔の隣同士がやっていたような助け合いや、信頼する仲間同士が家族機能を補完するような助け合いに、保険は馴染むのでしょうか?」と問題提起する。新潟市も国も、「地域の包括的な安心の暮らし」を「地域包括ケアシステム」として実現するための知恵が問われている。「地域で安心に暮らしていく」―新潟市で、その道は着実につくられつつあるが、まだ途上であることも確かなのだ。

<中原市長と信頼関係を強化>

「前代未聞」の取り組みである「市全域で、歩いて15分以内の助け合い」を、河田さんたちは「あと1年で軌道に乗せよう」と気持ちを固め、さらに力を入れようとしている。その時、市のトップとの信頼関係がやはり重要となる。中原八一市長は河田さんたちの取り組みを高く評価し、2018年秋の市長選でも「実家の茶の間・紫竹など、地域の素晴らしい福祉の活動をさらに伸ばしていく」と訴えていた。2019年10月、「実家の茶の間・紫竹」の5周年のお祝いにも駆けつけ、お祝いを述べると共に今後の期待も語っていた。「やっぱり、首長さんの姿勢は大事です。どうしても職員は首長の顔色を窺う。首長が助け合いに熱心なら、職員はウロウロしなくて済む。一直線で行けます。首長が曖昧な所は、職員も躊躇して、住民とうまくタッグを組むことができないんです」と河田さんも常々語っていた。

写真=「実家の茶の間・紫竹」の周年お祝い事業

「住民同士の助け合いが正念場に来ている」と感じた河田さんは、中原市長との面談を希望し、3月中旬に実現した。折悪しく、新型コロナウイルスの感染が広がり出していたが中原市長は日程をキャンセルせず、対応した。「率直に意見交換ができました。私たちの取り組みをしっかりと聞いていただき、信頼感が一層増しました」と河田さん。当初1時間の予定がコロナ禍の影響で急きょ会議が入り、30分に短縮されたものの、市との協働に新たな手応えを得て、河田さんは「さらなる1年の活動」に全力を挙げる気持ちが強まった。

<新型コロナ禍で活動休止>

しかし、新型コロナウイルスの影響は全国に広がっていく。河田さんたちは相談の末、「実家の茶の間・紫竹」の居場所としての活動は2月24日をもって休止することとした。集まられるお年寄りの健康を第一に考えての素早い決断だった。「茶の間」の機能は休止したが、「お互いさま・新潟」の事務局は活動を続けた。新型コロナウイルスの感染者が新潟市でも見つかり、市民に不安が広がっていく。不安拡大を示すように、「お互いさま・新潟」の相談電話は鳴る回数が増えていった。「1年半前から、困りごとについて電話相談できる態勢をつくり、福祉関係者にも徐々に存在が知られるようになってきました。茶の間は閉めても、『お互いさま・新潟』の当番さんが大型連休前までは事務局に詰めてくれ、心配な方からの問い合わせにも応じられました」と河田さん。しかし、各地で予定されていた「助け合いの学校」などの開催は全面的に中止となり、河田さんたちの取り組みも当面はストップせざるを得ない。支え合いのしくみづくり推進員の中には「包括ケアを構築する2025年まで、もう5年もないのに活動ができない。正直、焦ります」と言う人も多い。

新型コロナウイルスの感染が収まった後の日本がどんな姿、どんな雰囲気になっているのか、まだ誰も知ることはできない。「いま、医療崩壊が深刻な話題になっていますけど、2025年はどうなっているのか。この時には団塊の世代もまだ元気かもしれませんが、2035年には介護崩壊しているかもしれない。私たちは、そうならないように意識改革を進めて、『助け合いの気風』を新潟から広げ、住民同士が家の中に入って助け合う―そんな取り組みが当たり前のようになるために、今できることをやっていくしかないんじゃないでしょうか」。河田さんは、そう静かに語った。

<「ポストコロナ」の社会を睨んで>

新型コロナウイルスは、日本の超高齢社会にどんな打撃を与えるのか、それも予測できる人はいない。しかし、多くの人々が新しい暮らし方を始めた。いざという時に助けてくれる人は誰なのか。遠くの親戚に頼ることができない今、地域のつながりや心を許せる仲間に思いを馳せる人も多いだろう。そして、少なくとも今、間違いなく言えることは、日本国の財政がさらに厳しくなったことだ。新型コロナ対策に多額の赤字国債を発行したことで、「さらに厳しさを増す」と言われてきた介護保険制度は、一層苦境に追い込まれることも確実だ。

河田さんたちが「助け合い お互いさま・新潟」を軌道に乗せ、「住民同士の助け合い」を広げてきたのは、この方法しか未来の安心を得ることはできないと思っていたからだ。これまで「要支援」の生活支援などが市町村事業に移管されたように、「要介護」の生活支援も市町村事業となる時期は遠からず来るとの覚悟があった。それが「コロナ後」では、どれだけ加速していくのか、まだ見当もつなかい。「間違いなく『要介護1・2』までは『要支援』のようになっていく。『要介護』を市町村事業の対象にすることが決まってから、『ヘルパーさんはどんな在宅サービス・訪問介護をやっているのか』を調べるようでは間に合いません。ほとんどのヘルパーさんの業務は、家に入っての生活支援サービスです。『そのヘルパーさんが家に入れなくなった時、その役割を誰がやるんですか?』が問われてきます」と河田さん。

<「入口を入りやすくしただけ」>

国が「要支援」の生活支援を市町村事業に移管した時、B型訪問サービスの支援を手厚くし、ごみ出しや草むしりもその対象としたが、それは入口を入りやすくしただけで、本当は家にまで入っての生活支援を地域に求めている。少なくとも河田さんたちはそう見ている。「国は、入口を低くし、今は住民組織に立ち上げのおカネも出しているけれど、そこが終着駅だと思ったら大間違いになる。だって、B型訪問サービスのメニューを見ると、内容はほとんどヘルパーさんがやっているものになっている。近い将来、『要介護2』くらいまでは、今の訪問介護でやっているものを地域がやることになる。介護保険制度が大きく変わっていきます。それを今から視野に入れて、トイレの世話とか、台所の手助けとか、今ヘルパーさんがやっていることを『地域の助け合い』でやれるようにしておきたい。その中には、いま地域の人ができないことが一杯あるじゃないですか。だから、私たちは『助け合いの学校』や『お互いさま・新潟』を始めたわけよね」。河田さんは強い口調で語った。

<「住民同士の助け合い」を当たり前に>

いま、住民組織などが取り組んでいるB型訪問サービスの将来について、河田さんは厳しい見方を示したが、その助け合いを否定している訳ではもちろんない。「コミ協さんなどがやっているB型の取り組みとか、例えばJAさんや市民生協さんがやってきた「有償の助け合い」とか、みんな本当に一生懸命取り組んでおられます。これらはみんな大事にしていかないとダメ。自治会など地域でやっていることも大事で、『それはみんな、大切な新潟の宝なんだ』ということが大前提ですね。どことも敵対するものでもなく、競合するものでもない」と河田さん。それはすべて、住民が選択することができる大事な社会資源であるからだ。色々なサービスについて、「あんなの、便利屋さんだよね」とか、「儲け仕事じゃないか」と批判することを河田さんは大変に嫌う。「利用する側にとっては、それらはすべて選択肢です。困っている人を中心に考えた時、縄張り意識なんていらない。『とにかく、みんなで安心して生きていける新潟市になればいいなあ』って、そう思っているんです」。河田さんは自らに言い聞かせるように語った。

河田さんたちは、次々と助け合いの場をつくったり、助け合いの仕組み・システムを築いたりしているように見えるが、「それは、まったく違う」と河田さんは言う。「私たちは仕組みやシステムをつくっているんじゃない。『助け合い』の気風を広げようとしているだけなの。『助け合いの学校』もそう。あそこの研修は、手助けをする側を育てていません。手助けをしてもらう側が『こんな方が来てくれるなら安心だね』って思える研修しかしていないの」と河田さんは言う。助け合いの学校は、確かにそうだ。「これなら私も助けてもらいたい。だから、いま私のできる時、できることなら、助ける側に回ります」ということが研修の基本となっていた。そんな「助けられたり、助けたり」の気風を河田さんは新潟市全域に広げようとしているのだ。

写真左=コロナ前と、写真右=コロナ後の「実家の茶の間・紫竹」の様子。にぎわいは違っても、「助け合いの拠点」との重要性は変わらない

<「助け合いの形はどうでもいいの」>

「だから、形はどうでもいいの。『私たち家も近いし、お互いに助け合おうよ』と5、6人のグループで始めるのもありだと思うし、『今も助け合いグループに入っているけど、もう少し他人の家に入るスキルがほしくて、助け合いの学校に来ました』というのも大歓迎ですよね。B型訪問サービスをやっていらっしゃる方が助け合いの学校に来てくれて、『家の中に入るのはハードルが高いと敬遠していたけれど、これなら入れるね』って言ってくれたら、すごく嬉しい。茶の間をつくるのから始められるのも、近所のお年寄りに『きょう買い物に行くから、ついでに何か買ってこようか』と声掛けしてくれるのも大事なこと。宝です。とにかく、『みんなで力を合わせ、安心して生きていける新潟市になればいいなあ』って、そう思っているんです」。それが河田さんの一貫して目指すものだ。

「いつまでも、この土地で安心に暮らしたい」―そんな河田さんたちの願いから始まった取り組みが、新潟から日本全国に広がる日がくることを強く期待したい。新型コロナウイルスの感染がまだまだ収束する気配がないだけに、そんな気持ちに強くさせられた。

写真=「実家の茶の間・紫竹」の外観。「助け合い」の役割はさらに大きくなっている

<おわりに・青空記者の目>

このシリーズは、「新潟の助け合いの歩み」を訪ねて、2019年から河田珪子さんを中心に「実家の茶の間・紫竹」に関わる方たちに聞いた話をまとめたものです。2020年の年明けから「助け合い お互いさま・新潟」の取り組みが佳境に入ってきましたが、その頃から新型コロナウイルスの感染が全国に広がり出し、「実家の茶の間・紫竹」も2月下旬から活動を一時休止せざるを得ませんでした。しかし、河田さんたちは3月以降も「お互いさま・新潟」の事務局を維持し、「支え合いのしくみづくり推進員」有志らが3人チームとなって、河田さんらと実家の茶の間に詰め続けました。この時期に「お互いさま・新潟」の事務局機能は、より充実したといって良いかもしれません。その態勢も4月末の大型連休までで、それ以後は3人チームの作業も休止。「実家の茶の間・紫竹」のコアメンバーと河田さんが利用者との連絡窓口を務めながら、実家の茶の間の再開準備に追われる日々でした。(河田チームの努力があって、実家の茶の間は6月に再開されます。その様子については、ブログ「茶の間再開シリーズ」で紹介しました。)

河田さんたちは今、各地の茶の間の再開などを支援しながら、地域包括ケアシステムが本格稼働を目指す2025年に向けて、さまざまな助け合い活動を再起動させる作業に取り組んでいます。そのことについては、また折に触れてこのブログでご紹介するつもりです。一方で、これまでの「新潟の助け合いの歩み」については、それそのものが貴重な歴史であり、その到達点についても記録しておくべきものと考えました。特に「助け合い お互いさま・新潟」の取り組みについては全貌を記したものがなかった、と言って良いでしょう。「新潟市全域で、歩いて15分以内の助け合い」が、ポストコロナの時代にどんな形で復活していくのか―それも、まだ誰にも分からないことです。ただ、「お互いさま・新潟」の目指した方向と、その到達点は、記録しておくに値するものであることは確かだと思います。ジャンル名を「アーカイブ」としたのも、「重要記録を保存・活用し、未来に伝達する」との意味を込めたものです。

(この記録は、篠田昭の拙著「緑の不沈空母」(幻冬舎刊)の出版のための取材チームが2019年春に、また篠田らが2020年1月から4月まで、関係者への聞き取りを行いました。それを基に5月中旬までに書き上げておいたものを、その時点のまま掲載したことを付記しておきます。ご覧いただき、ありがとうございました。

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