ブログ「実家の茶の間」10月末でフィナーレ

まちづくり

◆ブログ「実家の茶の間」 10月末でフィナーレ◆

2024年10月28日

―いたわり合って10年 役割を全う―

―「茶の間同窓会」も開催、意義を確認―

<これまで活動や今後を語り合う>

10月27日(日曜日)、いつもはお休みの「実家の茶の間・紫竹」に30人近くの人が集まってきた。10月末で10年の役割を終え、フィナーレを迎える前に、お当番さんや利用者らが集まって「実家の茶の間」の活動の意義や今後について語り合おうと「茶の間同窓会」が開かれていた。

10月に入って「実家の茶の間」では恒例となった「全員挨拶」がこの日も始まった。実家の茶の間運営委員会代表の河田珪子さんらの発案だ。利用者の女性がマイク代わりの花を手に、こう語り出した。

「8年前にここに来て、ホンに良かったです。その頃、私の人生は真っ暗でした。『私も含めて、みんな死んでしまえばいい』―そう、本気でそう思っていました。気持ちがおかしくなって、髪の毛も抜けてしまったんだわ。それが、ここに来て、みんなの話聞いているうちに、考えが変わった。人が笑おうが、どう思おうが、自分の思ったこと、みんな吐き出していいんだ、ってね。それから、みんなと話しているうちにどんどん気が楽になって…。今?、今はね、幸せいっぱいなんです」

深刻な時期を、今は明るく話す利用者の言葉にみんなが頷いた。

「自分はどこにも居場所がない。そう思っていたんだけど、ここに来たら、みんなが『よくいらっしゃった』と温かく迎えてくれる。皆さんの顔見るとホッとします」

「転勤で6年前に新潟市へ。誰も知っている人がいなかった新潟なのに、ここの存在を知り、寄せてもらうようになった。お陰で、ここでいっぱい友達ができました」

そんな言葉が続いた。

<「ここで生かせている」>

お当番さんたちも語り出した。

「10年前、『地域包括ケア推進モデルハウス』の看板が掛かった家ができると聞いた。ここが始まった時は、玄関の手すりもなかった。それをわれわれ男衆がみんなで作ったり、きれいにしたりした。今週でここが閉まったら、今度は解体の手伝いをします。88歳になって、あと何年生きられるか分からんけど、頑張ります」

写真=みんな思い出を語り出した。男性のお当番さんが多いのも実家の茶の間の特長だ

「家のすぐご近所にこの場所ができて、カギの開け閉めやっています。最初はびくびくと活動していましたが、今は元気、勇気、やる気、5つぐらいもらいました。ホント、感謝しています」

「私が90歳で元気でいられるのも、茶の間のお陰。ここで自分のやれることをやらしてもらって、自分が当てにされていることが嬉しい。茶の間に生かされているんだわね」

<「茶の間に、触発されてね」>

実家の茶の間の活動に触れて、自分たちで新しい「居場所」を立ち上げたり、人に元気を与えたりする活動を始めた方もいる。

「近くの『茶の間』がなくなって、地域の方が『私たちの居場所がない』って言う。じゃあ、自分たちでやろうかって。河田さんらがやっていた『茶の間の学校』に何年か前に通って、茶の間をやり出しました。ここに来ると、やさしい気持ちになれる。やさしくなって家に帰れるというのかな」

「半年前、『まちの居場所・おでん』をつくって、活動しています。ここみたいに、みんなの元気が出る場所にしていきたい」

「障がいの方の相談の仕事をやっています。20年ほど前、河田さんたちがやっていた助け合いの組織『まごころヘルプ』の自主研修に2日間張り付き、勉強させてもらった。今度、70歳になったら自分で居場所をやろうと思っています」

河田さんらの取り組みは、自然と後継者を生み、新たな「居場所」を再生産しているようだ。

<新潟市との協働事業>

「実家の茶の間・紫竹」は10年前、新潟市と「実家の茶の間運営委員会」の協働事業として始まった。河田さんらが2003年から10年間運営した「うちの実家」が活動を終えた丁度その頃、国は「地域包括ケア」という考え方を打ち出した。「自助・互助・共助・公助の力を伸ばし、地域で医療・介護が受けられ、看取りまで自宅でできるようにするシステム」と国は喧伝した。地域包括支援センターが「介護予防」と「生活支援」も受け持つという。

みんなに促されて、河田さんが「実家の茶の間・紫竹」を立ち上げた頃について話し始めた。「2013年に地域包括ケアのニュースを聞いて、私はゾッとしました。自助には『自分のおカネで介護サービスを買う』ことも入るという。自助・互助の力を伸ばすというが、『昔、ご近所で助け合ったように、他人同士が助け合って生きていくことが今の世でできるだろうか‥』と。ギョッとさせられたんです。矢も楯もたまらず、私は新潟市の政策調整監をやっていた望月迪洋さんに相談したんです」と河田さん。

河田さんは「地域包括ケアが本格的に始まる今こそ、『うちの実家』のような地域の居場所が必要だ」と望月さんに語り掛けた。「新潟市との協働事業で『うちの実家』が再現できないか」というのが相談の趣旨だった。2013年の12月だったという。そこから望月さんらは入念に打ち合わせた上で、当時の新潟市長だった私のもとに、その話をもってきた。この経緯については拙著「実家の茶の間日誌」(幻冬舎ルネッサンス新書)などに詳述してあるので省略するが、新潟市は「地域包括ケア推進モデルハウス第1号」という位置づけで、河田さんとの協働事業を始めることにしたのだ。

<元市役所職員の述懐>

当時、市の担当部長として河田さんとコンビを組んだ仁多見浩さんもこの同窓会に出席していた。仁多見さんはこう振り返った。

「普通、こういう時、市役所は『委託事業』でお願いするのですが、河田さんは『市から任されるのは嫌。市も一緒にやる協働事業でなければ私はやらない』と言う。協働事業にすることを市に吞み込ませ、そこから場所探しです。家探しを河田さんと始めた。7、8軒目でここにたどり着きました。正直、ここを立ち上げる時は大変でした。ゼロからの出発どころか、マイナスからの出発でしたから―。でも、この家の修理や掃除もみんなでやったからね。みんなでやると、できちゃうんですよ」と。

その立ち上げを手伝った方々が深く頷いた。

<「嫌われることは私がやる」>

河田さんは「市との協働事業」にこだわった。それは「市も当事者意識をもって、実家の茶の間にかかわってほしい」との気持ちだったからだろう。「結果的にそれが成功した」と私も思う。委託事業だったら10年はもたず、これほどの成果を生むこともなかったのではないか。

写真=10年を振り返る河田さん。市OBの仁多見さん(手前)も聞き入った写真=NHKリポーターも思いを語った。10月29日の「新潟N610」に紹介するそうだ

「私も自分ごととして考えました。そして、『人から嫌われることは河田がやる』ことに決めました。家に帰ってぼろぼろ涙が出る日がなかった、といえばウソになります。夫の前でタメ息ついて、夫から『頑張れよ!』って励まされるようなこともあった。でも、『自分の意志で始めたことだから』―。これは貫きました」と河田さん。

<マザー・テレサの言葉を紹介>

河田さんはこの日、「かまわず、あなたであり続けなさい」という有名な「マザー・テレサの言葉」を用意していた。「あなたが善を行うと 利己的な目的でしたと言われるでしょう 気にすることなく、善を行いなさい」などのフレーズがある、あの言葉だ。河田さんはこの10年、あるいは助け合いを志してからずっと、マザー・テレサの言葉を噛みしめながら進んできたのかもしれない。

マザー・テレサの言葉を朗読する河田さんの姿に、何人もが涙を流して聞き入った。

<これからの行き先ができた>

河田さんが「実家の茶の間」を閉めるに当たって、最も心を砕いたのが「今までここに集っていた方々のこれから」だった。この夏以降、河田さんは折に触れて、茶の間の参加者の方々に対し、「これからどうしていこうか?」と自問自答する機会を持ってもらうようにしていた。みんなに茶の間の役割や思い出を振り返ってもらうのもその一つだ。「実家の茶の間での絆が、今後の自主的な助け合いにつながっていくかもしれない」と考えたり、「実家の茶の間で集ったことが、次の活動につながるように」と促したりしてきた。

それは「居場所を自分たちで立ち上げよう」との動きとなって実現し始めた。「後継者なんて、おこがましいことは言えないし、言わない。みんな自分それぞれのやり方で、何かやってくれればね。この地域でも『地域の茶の間・紫竹』ができるそうです。ここと同じように月・水でやってくれることが決まりました。これから、自分の行ける先ができた―それは素晴らしいこと」と河田さんは言う。

一方で、河田さんらも「次の取り組み」を始めようとしている。以前に「茶の間の学校」の舞台にもなった石山地区公民館で月一回、定期的に集まりを開くことにしたのだ。「月にたった1回でも、みんなと会える場があれば、『安心』と言ってくれる人がいるんじゃないでしょうか。全然会えなくなるのはさみしいですから」と河田さん。「実家の茶の間・紫竹」で蒔いたタネは、これからも様々な地域で花開くのだろう。

写真=同窓会の終わりに参加者で記念撮影。みんな笑顔だ

<開催は「あと2日」>

写真=掲示板には「終了まであと2回」の文字が…

「茶の間同窓会」が開かれた翌28日、「実家の茶の間・紫竹」の掲示板には「終了まで あと2回」の文字が描かれていた。この日は新潟市の井崎規之副市長らが顔を出し、お別れ会が開かれる日だ。この日は「フィナーレまで2日」に加えて、名物のカレー昼食最後の日とあって、茶の間は大勢の人でごった返していた。そんな中、恒例になった「1人1分発言」はこの日も行われていた。

写真=大勢が参加した28日の実家の茶の間

「1分ではとても終われない」と、大幅に超過して茶の間の思い出を語る方も続出する中、体調を崩している中原八一市長に代わって姿を見せた井崎副市長は参加者に10年の活動のお礼を丁寧に語った。新潟市と包括連携協定を結んだ「さわやか福祉財団」の清水肇子理事長も東京から参加。連携の意味の大きさを語ってくれた。この日、カレー昼食を召しあがった方は80人を超えた。

写真=この日の進行役はお笑い集団NAMARAの江口歩さんが務めた写真=駆け付けた井崎副市長が感謝の挨拶

あと、残すは30日の最終日のみ。「実家の茶の間・紫竹」は姿を消しても、その活動の遺産は着実に受け継がれていく。最終日まで、茶の間の様子を見守っていきたい。

 

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