茶の間再開13

地域の茶の間

*「実家の茶の間」再開*(13)

―「ここは本物、心が解放される」―

―「茶の間」を利用する方に聞く①―

2020年6月~7月中旬

再開された「実家の茶の間・紫竹」は、運営委員会代表の河田珪子さん(76)らの努力が実を結び、6月の一カ月間ですっかり軌道に乗ったようだ。参加者の絶対数は以前のように多くはないものの、午前と午後を合わせると利用される方は20人~30人台で安定して推移している。「実家の茶の間・紫竹」の魅力はどんなところにあるのか、再開後の6月から7月にかけて茶の間を利用した方に聞いてみた。写真=再開して3週間後、落ち着いた雰囲気になった「実家の茶の間・紫竹」

<「新潟に来て、良かった」>

64歳になったWさんは岩手生まれ。東京でヘルパーをしていた頃、テレビで河田さんたちの茶の間の活動を知った。漠然とではあるものの、「新潟で頑張っている人たちがいるんだ」と感じていたWさんは、新潟生まれの夫の縁で昨年5月に新潟市に引っ越してきた。「新潟には知り合いもいませんでした。茶の間のことを思い出して、『どんな所なのか、一回訪ねてみよう』と、ふらりと来てみたんです。そうしたら、河田さんがちょうどいらした。『よく、いらっしゃいました』って、迎え入れてくれて、す―っと実家の茶の間に入れました」とWさん。茶の間の中に入ってしばらく話をした後、「ちょっと恐縮だったんで『私は、新潟の人間でもないんですよ』と言ったら、『そんなの、関係ありません。誰でも一緒』と、さらに歓迎してくれた。お陰で、茶の間から新潟の人間関係をつくることができました」と笑顔で1年前を振り返った。

<「私だけが得をしているの」>

Wさんが新潟に引っ越してきたことで、活動の範囲が大きく広がった人がいる。たまたまWさんの隣に住んでいたSさん(62)だ。「私は目が見えない。全盲なんです。それが、この方が隣に引っ越してきてくれたお陰で、茶の間にも一緒に連れて来てもらえる。ここでは私だけがプラス。茶の間のお付き合いで、私が一人だけ得をさせてもらっているの」と、Sさんは嬉しそうに語り掛けてきた。昨年7月に初めてWさんと一緒に実家の茶の間に来て以来、「週1回はきていた」と言う。Sさんにとってヘルパーの経験もあるWさんは頼りになる存在だ。「隣にこの方が越して来なかったら、茶の間で寛ぐこともできませんでした。心の面でWさんに大きく助けられている。ヘルパー経験だけでなく、身内に目の悪い方がいらっしゃるんで、こっちの気持ちが良く分かるんです」とSさん。

<活動休止で「本当の姿が分かった」>

Sさんは、河田さんのことを「若い時から知っていた」そうだ。「さまざまな福祉活動をやられていて、私らから見たらチョー有名で、芸能人のような憧れの人。その方と、こういう縁にしてもらえるなんてね」とSさん。実家の茶の間が2月末から活動を休止したことでさらに見えてきたことがあると言う。「休みの時でも、みんなのことを何とかつなごうと考え、動いてくれた。私も3度、電話をもらいました。『元気にしてる?』ってね。人の心の中は有事の時に分かる、というけれど、活動を休んでいる時に、本当の姿が分かった。私なんか、まったくの他人様なのに気を遣ってくれる。その真剣さがすごい。ここの活動は本物なんだ、と」と言う。

<「いるだけでホッとする、大切な場>

Sさんの話を聞いていたWさんも「ここが休んでいる時でも、『つながっている』という安心感がありました。みんなが居場所を必要としていることを河田さんがきちんと分かって、私たち参加者に思いを馳せてくれている―そのことが伝わりました。ここに来て、何をするんでもない。でも、いるだけでホッとする大切な場所です」とWさん。Sさんがこの言葉に呼応するように、「ここは、『自分ができないことを、そのまま、できない』と出して良い場なの。こういう環境は他にありません」と続け、「みんなの声、また聞けて嬉しい。いつも、一人だからね」と笑顔を浮かべるのだった。

 

―「ここが一番、貴重な居場所」―

 ―「茶の間」を利用する方に聞く②―

円山美紀さん(88)は、「実家の茶の間・紫竹」の利用者の中でも、「元気ばぁちゃん」で知られる。5年ほど前まで、近くの沼垂市場で野菜売りをしていた。市場に出るのをやめる時、「仕事やめて、うちで寝てばっかりいたら、3カ月でダメになるよ」と仲間に言われて、実家の茶の間に来るようになった。「オレ、目も悪いし、手もきかない。何の役にも立たないのに、茶の間に置いてもらって…」という美紀さんだが、できることをできる範囲でやり抜く姿は、皆の模範になっている。美紀さんに茶の間について聞いた。

<「勇気出して、行ってみるか」>

美紀さんは「実家の茶の間」がある紫竹町内に住んでいる。ずっと市場で働いていたから、実家の茶の間のことは知らなかった。市場をやめる時、知り合いから「あんたの家の近くに、いい場所があるから、行ってみたらどうだ」と言われた。「でも、手続きもあるだろうし、行っても何の役に立たない。だって、その頃は私、掃除も、茶碗洗いも、何もできなくなっていた。それでも、いいのか」と迷ったそうだ。しかし、家にいては本当に「寝てばっかり」になってしまう。5年前のお彼岸の中日に「勇気を出して」茶の間を訪ねたのが最初だったそうだ。実家の茶の間の前を何回か、行ったり来たりしていると、実家の茶の間運営委員会代表の河田珪子さんが茶の間から出てきた。

「『ここが茶の間ですよ。寄りませんか』と玄関から声を掛けてくれたんで、やっと入ることができた」と美紀さん。河田さんに利用の条件を聞くと、デイサービスのような手続きもないし、区役所にも行かなくていいし、誰でも利用できると言う。「何の役にも立たなくても良いのか」と美紀さんが念を押すと、河田さんは笑って「そんなこと、いいです」と言ってくれて、ようやく安心したと言う。「それから、すっかり、はまってしまって、月・水曜日は毎回のように寄せてもらっている」そうだ。

<「ここが休みだと、寝てるばっか」>

すっかり、茶の間に行くのが習慣になった美紀さんにとって、新型コロナウィルスの影響で実家の茶の間が休止になった影響は大きかった。「ここが休みだと、毎日、寝てるばっかでしょ。外に出るのは医者に行く日だけ。コロナが来なくとも、いつ死ぬか分からん、いつお迎えが来るかと思っていたが、なかなかこない」と、ぼやいていた美紀さんにとって、実家の茶の間の再開は嬉しいニュースだった。「再開の2日目から来ている。市場に行っている時は、そこが私の居場所だったけど、市場やめてから自分の居場所がなくなった。ここが一番貴重なオレの場所なんだわ。再開してもらって、ほんに助かっているんさ」と美紀さん。再開当初はお昼休みで帰っていたが、河田さんから「前のように昼食は用意できないけど、パンでも、おにぎりでも持って来たら、午後3時に終わるまでいてもいいですよ」と言ってもらった。最初は「オレだけ特別扱いはまずいだろう」と思った美紀さんだったが、みんなから「いいよ、いいよ」と言ってもらい、6月中旬からはお昼持参になった。

<曲がった腰で、拭き掃除>

「目も悪いし、腰も曲がって、右手はしびれてるしさ。手伝いしようと思っても何もできねえ」と、周りにこぼしている美紀さんだが、お昼が終わると自分が座っているテーブルをアルコール消毒し出した。確かに腰は曲がっているものの、テーブルに手を突きながら丁寧に拭き掃除をする。その姿からは、「自分でできることはできる限りやる」との強い意志が伝わってきた。
写真=曲がった腰で拭き掃除をする円山美紀さん

<青空記者の目>
茶の間を楽しみにしている方たちの声をじっくりと聞いて、「実家の茶の間は、皆さんでつくり上げている場なんだ」と改めて感じた。実家の茶の間に漂っている、ゆったりとした空気感は、(もちろん河田珪子さんをはじめとする運営側の長い経験と卓越したノウハウに支えられているのだが、)そこに憩われている方たち一人ひとりが紡ぎだしているように感じた。「この大切な場を長く続けるために、自分でできることは、小さくとも自分で動いていこう」との気持ちが一つ一つの言葉や動きに表れているように思える。
円山美紀さんが「オレは何にもできない」と言いながら、昼食の後、自らのテーブルを不自由な体でアルコール消毒している姿。目の不自由なSさんが「ここでは、私だけが得をしている」と言うのに対し、「あなたが来てくれるから、みんな励まされているのよ」と応じる言葉。その一つ一つが、実家の茶の間の本質をつくり出しているように感ずるのだった。

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