文化が明日を拓く3

まちづくり

*文化が明日を拓く?!(3)*

<ウイズコロナ時代 総踊りの今②>

―「千年続く祭り」の旗は降ろさない―

   ―伝統つなぐ根幹は,「地域に立脚」―

<「食の陣」は再来年をにらむ>

 「にいがた総踊り祭」はクラウドファンディング(CF)の成功もあって、来秋の祭り復活に大きなメドが立った。

写真=総踊りの講習会。参加した人たちは久しぶりに伸び伸びと体を動かしていた(新潟市体育館)

 「一方で、食の陣やアートミックスジャパンは来年も厳しい。恐らく、中止せざるを得ないと思います」。総踊り祭実行委員会の総合プロデューサーを務める能登剛史さんは明るさを見出す一方で、能登さんが中心的役割を果たしている2つの大きなイベントの再開には「もう少し時間が掛かる」と覚悟を決めている。

 その一つ、「にいがた 冬 食の陣」は今年で28回目を迎えた、新潟を代表する食のイベントだ。「とかく寂しいと言われる新潟の冬を、鍋料理を中心とした新潟の食で楽しく、にぎやかにしよう」と始まった食のイベントは、2回目から古町のアーケード街などを会場とし、新潟の冬を明るく変えてきた。能登さんは、定着した食の陣に新たな魅力を吹き込むことを期待され、2015年から実行委員長を務める。「飲食のイベントはやはり、コロナ対策が難しい。オンラインで盛り上げるイベントも考えられるが、それはやっぱり一部のこと。食を核とする地域イベントは、みんなが集まって楽しむことがポイントですから…。2月開催ということもあって、食の陣は再来年以降と思っています」と能登さん。

<アートミックスにも難問>

 もう一つ、能登さんたち総踊りのメンバーが中心となって育てた「アート・ミックス・ジャパン」(AMJ)は、今年も4月中旬に開催される予定だったが、新型コロナが広がり出した3月6日、能登さんらはいち早く中止を決めた。AMJは、新潟市の姉妹都市である仏・ナント市から生まれ、世界に広がった「ラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日音楽祭)」に触発されて始まった。AMJは普段、ちょっと縁遠く思われているクラシック音楽を、一コマ45分前後で気楽に聞くことができ、気に入った楽曲をはしごできることで大人気を博した。新潟市でも開催された「ラ・フォル・ジュルネ」に触れた能登さんらは、「同じような方式で、和の文化の祭典ができないか」と考えた。

 「総踊りを始めたことで、全国のさまざまな芸能・祭り集団とネットワークができました。篠笛とか太鼓とかの多くが後継者難に悩み、認知度が上がらずに苦しんでいました。それは日本の伝統芸能も同じこと。能や狂言を見たことがない日本人が多い。ミニ解説付きで、日本の多様な文化・芸能に気軽に触れることができるイベントを考えました」と能登さんは振り返る。2013年にAMJを立ち上げ、総合プロデューサーに就任した。AMJは集客に苦しんだ年もあったが、女性を中心に幅広い支持を得て、新潟発の文化イベントとして全国的にも注目されるようになった。昨年のAMJはクルーズ船の新潟寄港もあって、国際色に溢れるものになり、今年のオリンピックイヤーでの飛躍が期待されていた。「このイベントはいくつもの公演を『はしご』することが特徴ですが、これがコロナ対策の難点にもなる。残念ですが、来年も中止せざるを得ません。ただ、アートミックスは新潟に芽生えた文化のシンボル。必ず復活させていきたい」。そう能登さんは語った。

<世界で認められる新潟の文化>

能登さんらは、総踊りとAMJの活動で世界とも出会った。能登さんを支える岩上寛さんは「総踊りで海外公演も何回もやらせてもらいました。ロシアでも、フランスでも本当に喜んでもらえた。踊りを通じて、世界に仲間ができました」と言う。能登さんも「日本では『伝統芸能』と言われるものが、海外では『アート』なんですね。アートミックスをメキシコでやったら、2日間で5万人がやってきてくれた。予測の倍でした」と能登さん。新潟発の文化が国際交流でも大きな役割を果たせることを能登さんらは実証し、それがAMJでの国内評価をさらに高めていったのだ。その文化が今、厳しい状況に晒されている。岩上さんは「踊りに限らず、全国で知り合いになったアーティストたちがコロナで何人もこの道を諦めて、やめてしまっています。『文化がこうやって死んでいくのか』―これを目の当たりにしているのは本当につらい」と厳しい表情で語った。

<「まだ、19年目でしかない」>

そんな中で、総踊りは来年に向けて動き出した。「今年も9月に『幻の総踊り祭』という形をオンラインで開催しました。60団体ぐらいが参加し、今年やるはずだった曲を踊って、一日限りの幻の祭りでしたけど、喜んでもらえた」と岩上さんは言う。2002年に総踊り祭をスタートさせた当初から、能登さんらは「千年続く祭りを」と掲げていた。「そこにコロナですからね。まだ19年目でしかない。前回のスペイン風邪が100年前と言いますから、100年に一度は感染症の流行を覚悟しなければならない。千年の重さを実感しました」と能登さんは言う。

写真=「千年続く祭りの旗は降ろさない」と語る能登剛史さん。右は次代を支える小さな踊り手たち(総踊りの講習会から)

千年という歳月には感染症だけでなく大災害、戦争、権力構造の大変化など、さまざまな事象の大変化がある。「それでも千年前後続いてきた祭りが日本にはあります」と能登さん。京都祇園祭や福岡の博多祇園山笠のような祭りは、長い年月を地域と共に生き抜いてきた。「地域の文化的根幹を担う伝統行事は、どんな風に継承されてきたのか…。経済的な支援や仕組みを根底から考えざるを得ません。ただ、間違いなく言えるのは、地域に立脚して、根を張っていくことが必要です。コロナで今、目の前に広がる問題をどうこうするというレベルとは別に、千年続く祭りを掲げた以上、とことん継続性を問い詰めていく。これは国や行政に支援を求める以前の問題。われわれに課せられた課題です」と能登さんは語るのだった。

<青空記者の目>

 「千年続く祭り」―これは、能登さんらの想いとは別に、今までは単なるキャッチフレーズに聞こえたかもしれない。しかし、実際に文化を根こそぎにするようなコロナ禍に襲われてみると、「千年」という言葉の重みが能登さんらに実感を持って迫ってきているようだ。新潟でも江戸時代、「四日四晩踊り明かした」と伝わる盆踊りや、「佐渡から新潟湊が燃えているように見えた」と言われた湊祭りなど、全国に響き渡る繁華の祭りがあったそうだ。その踊りや祭りは明治維新政府の目には「あまりにも過激」と映ったのだろうか。延べ何十年も禁止令が出た結果、幻の踊り・祭りになってしまった。

 能登さんたちが総踊り祭で復活させた「下駄踊り」は、この盆踊りを描いた「蜑の手振り」などを基にしたものだ。さらに能登さんらは、伝承者が絶えそうになっていた「永島流樽砧」を、この下駄踊りと組み合わせることで生き返らせた実績を持つ。「新潟とは何者だ?」と聞かれた時、歴史に裏打ちされた祭りや踊りがあることは大きな答えになる。古町芸妓などの「踊り文化の街」である新潟は、千年続く文化をつなげていけるのだろうか。それぞれの熱意と覚悟が問われているようだ。

 

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