文化が明日を拓く2

まちづくり

*文化が明日を拓く?!(2)*

<ウィズコロナ時代 総踊りの今①>

 ―「仲間がいたから ここまで来れた」―

   ―8月から講習会再開 来秋の祭りを支えに― 

<「仲間がいなけりゃ、心が路頭に迷っていた」>

「右!左!クロス!ターン!右、右!左、左!」

10月7日午後7時15分、新潟市体育館の広い空間に坪川なぎささんの元気な掛け声が響き始めた。にいがた総踊り祭実行委員会の講習会が始まったのだ。リードする坪川さんは、昨年までダンススタジオのインストラクターをやっていたが、今年の年明けから総踊りの指導に加わった。「その頃は、まさか新型コロナがこんなに広がるとは思っていませんでした」と苦笑する坪川さん。2月から感染が全国に広がり始め、総踊り祭実行委員会は4月27日、19回目となる今年の総踊り祭の中止を決めた。そんな中、坪川さんは5月からは総踊り祭実行委員会の事務局に入り、総踊りの今後を模索する取り組みの輪に入って行った。8月からようやく総踊りの講習会が再開され、坪川さんは踊りを指導する立場にも戻った。

写真=総踊り講習会で生き生きと指導する坪川なぎささん

「大変な時に総踊りにいっちゃったね、と言われますが、私はそうは思いません。総踊りの仲間が一緒だから、希望を捨てずに、ここまでやってこれた。もし仲間がいなかったら、心が路頭に迷っていたでしょう」と坪川さんは冗談めかして明るく笑った。そんな坪川さんの話を聞きながら、総踊り運営会社の副社長を務める岩上寛さんは「坪川さんは個々の踊り手さんと向き合う力が強いんです。踊りのリーダーにホント、向いていると思う」と語った。この日は、20人余りが講習会に参加した。小さい子は小学生から、50代ぐらいまでで、女性の割合がこの日は高かった。「来秋の踊りに備えてくれている地域のリーダーもいますし、初めて来てくれた人もいる。年齢層も保育園児から60代以上まで、さまざまです」と岩上さんが説明してくれた。

<出番、まったくのゼロに>

岩上さんは、総踊り祭実行委員会の顔である能登剛史・総合プロデューサーとコンビを組み、立ち上げの時から総踊り祭に関わり続けてきた。まだ大学生の時だった。「能登さんから『子どもたちに見せてやりたい景色をみんなでつくろう。踊りの祭りで新潟を元気にしていこう』と誘われました。まだ19歳だったし、『子どもたちのために』と言われても最初はピンとこなかったんですが、だんだん引きずり込まれてしまって」と言う岩上さん。以来、2002年の最初の総踊り祭から能登さんと共に、実行委の中核を担ってきた。その岩上さんにとっても、この半年余はまさに試練の時だった。「春から年間の活動が一切できなくなりました。講習会やイベントが全部中止ですから。例年だと春はイベントの多い時で、毎週末は地域の祭や催しに呼ばれるし、平日は各地で踊りの講習でしょう。新潟市とつくった総踊り体操でお年寄りや学校に行くのを入れると、ほぼ毎日、出番がありました。それがまったくのゼロ。実行委の事務局もいったん閉鎖しました」と岩上さん。

<「総踊り体操」で活路>

能登さんや岩上さんは、「コロナ禍の下で、いったい何ができるのか」を考え、模索を続けた。「三密」を避け、どうすれば踊ることができるのか、講習会を再開することができるのか―その中で突破口となったのが総踊り体操だった。これは市民の健康寿命を伸ばそうと、新潟市が総踊り祭実行委とコラボした取り組みで、広く市民から活用されていた。「心身の健康を維持するためにも総踊り体操を何とかやれるようにしたい」との思いは、行政も共有できるものだった。市は、実行委と意見交換しながら総踊り体操を実施する際のガイドラインを作成。6月11日から講習会の再開に踏み切った。7月からはオンライン講習会もスタート、岩上さんは講師を務めた。オンライン講習会には介護施設も参加するなど、大きな広がりを見せている。「市の総踊り体操ガイドラインを活用して、8月から基本90分の踊り講習会も再開できました。半年近く踊ることができない方が参加して、涙ぐむ方もいらっしゃった」と岩上さん。「これほどにも、踊ることへの思いが強い方がいらっしゃるんだ」。そう感じた岩上さんも涙を抑えることができなかったそうだ。

写真=講習会で踊りの指導をする岩上寛さん

<女性3人「総踊りは宝もの」>

この日の講習会に、トリオで参加した女性グループに話を聞いた。黒埼地区のチーム「よさこい雅—kurosaki—」のメンバーで、チームは総踊り祭の1回目から参加しているという。トリオの一人、星野まゆみさんは「雅は、地域の保育園の先生たちが立ち上げてくれたチームなんです。私が20代の時、子どもが入っていて、その子が高校生になって抜けたのと入れ替わりに、私がメンバーに入りました」と言う。コロナ後は一カ月前の講習会に初めて参加し、思う存分、体を動かした。「この春、総踊り祭が中止と聞いて、すっごくショックでした」「総踊りでの絆って、私たちの宝ものだ、ってことに気づきました」「来年こそは、みんなで祭りに参加したい」―3人は生き生きとした表情で語ってくれた。

<仏・ナント市からも支援の手>

一方、講習会を再開した直後から能登さん、岩上さんらがは来秋の総踊り祭を実施するためのクラウドファンディング(CF)に着手した。前回、紹介したように9月下旬、目標額の1千万円を突破した。このこと自体も嬉しかったが、ある意味、それ以上に励みになったのが寄せられたメッセージの熱い思いだった。「これに参加してくれた900人以上の方と、心を一つにすることができました。今までは毎年、「心躍れば皆同じ」という総踊り祭の理念の下、総踊り祭で心を一つにしてきたわけですが、今回はクラウドファンディングでみんなと心を一つにできた。改めて来年に向けて頑張らなきゃ、と思っています」と岩上さんは言う。CFには海外からも参加があった。新潟市の姉妹都市、フランスのナント市の人たちだった。「総踊りで全国に仲間ができました。踊りは地域を超える力を持っています。中でもナント市の若者たちとは、本当に良い関係を結べました。総踊りには毎年、ナントから若者チームがやってきてくれるし、ナントに連絡事務所までつくってくれた。踊りの絆はすごい。これを実感しています」。岩上さんは、未曽有の苦境の中で踊りと祭りの可能性に強い手ごたえを得ていた。

<青空記者の目>

総踊り祭を最初に見たのは2002年9月の第1回の時だった。その時、私はちょうど新潟市長選に立候補することを決意し、あまり確かな当てもなく市内をさまよっているような時期。「えらく元気な祭りが誕生したものだ」と、その熱気に驚かされた。「立場を超え、年齢を超え、新潟の老若男女が、これほどまでに生き生きと躍動している」ことに感動を覚え、それ以上に踊り終わった後、全員で「ありがとうございました」と観客に感謝する礼儀正しさに驚嘆した。「新潟の文化が踊りで変わっていくのでは…」と予感したことを今でも良く覚えている。

その総踊りも新型コロナの影響でかつてない苦境に立たされている。しかし、リーダーの能登剛史さんをはじめ、関係者は事態打開に最大限の知恵を絞り、動き出していた。クラウドファンディングも見事成功させた。にいがた総踊りの参加条件はただ一つ、「心を込めて踊ること」で、あらゆるジャンルの踊りが参加できる。ここが単なる「YOSAKOIソーラン」の二番煎じにならなかった大きなポイントであり、「何でもあり」の新潟文化を象徴しているようにも思う。今回嬉しかったのは、岩上寛さんらが「新潟市と一緒に総踊り体操をつくったことが、踊り講習会を再開させる大きなポイントとなった」と、総踊り体操を評価していることだ。新潟市民の健康寿命延伸のため、遊び心も入れてパパイヤ鈴木さんに振り付けをお願いした公民の協働事業がしっかりと根付いている。「踊りのために集まる」と言うと白い目で見る人も、「健康体操のための集まり」と聞けば理解してくれる。そのガイドラインを活用して踊り講習会も復活した。地域の茶の間が「実家の茶の間・紫竹」をモデルにして再開するところが増えたように、総踊りも講習会の開催を手本として、総踊りの集まりが地域でも再開の輪を広げてくれるのではないか。「総踊り体操は地域の宝です」と言う岩上さんの話を楽しく聞いた。

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