にいがた 「食と農の明日」19

まちづくり

*にいがた 「食と農の明日」19*

<ビフォアコロナ時代のJA 元名物組合長に聞く>

―不祥事「再建役」から、「いっぺこーと」生みの親へ―

「宣伝になるなら、逆立ちでもやったね」

「猫の目農政」から「ノー政」まで、日本の農政を語る代名詞は数多(あまた)あるが、いずれも芳しいものではない。一方で「農協」のイメージも「頑迷」「閉鎖的」から「利益集団」まで、鈍色(にびいろ)の言葉が並ぶようだ。では、新潟で農協トップを長く務めた人物からは、新潟の「食と農」がどんな景色に見え、どんなことに取り組んできたのだろうか―。21世紀の幕が開いて間もなく白根市農協(JA白根市)の代表理事組合長に就任。2007年に5JAの大合併を成し遂げて「JA新潟みらい」を誕生させ、以後「みらい」の代表理事組合長と併せ、2015年からはJA新潟県中央会の副会長を2017年まで務めた高橋豊さんに、「ビフォアコロナ」時代のJAの歩みと、「ポストコロナ」の展望までを聞いた。

写真=「JA新潟みらい」が運営する「いっぺこーと」(西区亀貝)。高橋豊さんが開設に全力を注いだ施設だ

<大不祥事で組合長に>

1946(昭和21)年生まれの高橋豊さんは2002(平成14)年、請われて白根市農協の専務理事となった。高校を出てコメ農家を継ぎ、6・7ヘクタールの水田を耕していた高橋さんにとって、50代半ば過ぎからの再出発だった。それから4カ月もたたないうちに、高橋さんは「農協不祥事」の渦中に巻き込まれた。「専務の仕事もよく分からん時に、白根市農協で事件が起きたんです。それも県の団体指導室から『前代未聞』と言われるくらいの不祥事でした。いつの間にか、私が組合長をやることにさせられて…。専務やったのは4カ月だけでした」と高橋さん。「何やってんだ、白根は」と農協仲間にも怒られながら、高橋さんは白根市農協の立て直しに奔走した。「とにかく、善後策を考えなければダメでしょ。それで、以前に不祥事があった組合長のとこに相談に行って、『善後策のひな形教えてくれ』と頼んだら、その人も苦労したんでしょうね、『オレがどれだけ難儀したか分かっているのか』と一喝されただけで教えてくれない。中央会に行っても『こんな大不祥事、前代未聞だ。ひな形なんかない』と言われ、ホント真っ暗でした」と高橋さん。

写真=「白根市農協」の組合長になった頃を語る高橋豊さん

<「楽になること、考えてるだろ!」>

昭和末から平成にかけて、県内の農協でも不祥事が頻発していた。「改善のひな形ぐらい、すぐ見つかるだろう」と思っていたが、灯りは見えない。「責任取るにはやめれば良い―それがオレは最初、分からなかった。『そうか。責任取るには辞めれば良いのか。そうすれば楽になれる』と気づいた」と高橋さん。辞める覚悟を密かに決め始めた頃、ある先輩から「高橋。お前、楽になること、考えてるだろ。もし、お前が辞めたら、理事も総辞職するからな!」と言われた。さらに農協の幹部職員からも「高橋さんが辞めたら、オレたちはどうすればいいんですか」と泣きつかれた。「楽になろうという気持ちが態度に出たんだねえ。そう言われたら辞められないでしょ。『もう、逃げられない』って覚悟して、それから死に物狂いで、どうやって前へ行くか―再建策を考えて、実行しました」と高橋さん。後で振り返ると、「あの時、楽になること考えてるだろ、って言われたことがオレを前へ進ませる原動力になった。結果的には応援団の役割を果たしてくれた」と思うそうだ。

それ以降、不祥事は9回ほど経験した。最初の不祥事はマスコミでも大きく取り上げられた。この時、マスコミの怖さと、持っている力のすごさを知ったという。その力を高橋さんは最大限、活用することになるのだが、それはまだ先の話となる。

<9支店を2支店に統合の荒療治>

高橋さんは農家時代を振り返り、「平成7(1995)年に食管法が廃止になって、大変な時代がくると思ったが、その前、平成5年に異常気象で東北が大凶作になった。コメ不足で新潟のコメは引っ張りだこ。転作もやったんだが、それに応じない農家も出てくる。新潟のコメが高く売れて、コメ農家が良かったのはせいぜい2、3年。みんながコメの作付をやるもんだから、コメが余ってきて、米価がどんどん下がってくる。農協だって改革が求められる。そんな頃、私に農協の専務やれって声が掛かったんですね」と語る。

不祥事の後始末にようやく目途がつくと、課題だった白根市農協の改革に取り掛かる。一番の難題は支店の統廃合だった。「白根に支店が9つあった。これを北と南の2つにしたんです。最初はポカスカ叩かれて、そりゃあ大変だった。統廃合におカネも随分掛けましたよ。10億単位でね。後で左前になったら、生きてけない、と思うほどでした。不祥事の解決で、『前に出るしかない』との思いが染みついたから、やれたんじゃないですかね。結果は、統廃合効果で人員削減や、重複していた設備のスリム化などができて、組合員には喜んでもらえた」と高橋さん。

<日本海から福島県境までのJA誕生>

次の関門は農協の合併だった。コメ農業が行き詰まり、農協の主要業務である共済や金融は、将来的にすべて経営困難になると予測されていた。国も農協の合併助成法を制定し、合併を支援していた。行政では2002(平成14)年、白根市などが新潟市と大合併し、新・新潟市が誕生していた。合併は時代の流れだった。白根エリアは、新潟市の一部と中東蒲原の農協との合併協議がスタートしていたが、話し合いは難航していた。「合併助成法の期限が平成18年3月に切れたのを、1年延長してもらい、ようやく合併に漕ぎつけました」と高橋さんは振り返る。JA白根市は、JA新潟西、JA五泉よつば、JA亀田郷みなみ、JA東蒲あがの、の4JAと合併して「JA新潟みらい」が発足した。平成19(2007)年1月だった。

「JA新潟みらい」の誕生により、日本海に面する砂丘畑から白根・亀田の果樹地帯、横越・五泉の園芸産地、福島県境までの山間・中山間地が一緒になった。コメ依存の強い県内各地とは異なり、多彩な特産作物を産み出す地域だ。「私の仕事は、合併で一緒になった地域の特産品を全国に売り込んで、ブランドにしていくことになった。とにかく、何かやらんきゃダメだ。私、あんまり頭の良い方じゃないから、動くしかない。宣伝になるなら、逆立ちでも何でもやろう、と。そんな思いで色んなこと、やりましたね」と高橋さん。

<ル・レクチエ持って首相官邸に>

今や、ブランドとなった洋ナシ「ル・レクチエ」も、当時はあまり知られていなかった。高橋さんは動いた。「レクチエを持って、首相官邸まで行きましたよね、篠田さん。市長時代のあんたと一緒に。レクチエは味も、香りも、姿も良い。評判が良くなってきて、今度は需要に生産が追いつかない。そうすると、消費者はもっとほしくなる。相乗効果ですかね。みらいの農産物はうまい、と言われるようになってきました」。レクチエの評判は、他の作物にも良い影響を与えたようだ。

<3・11大震災で被災地支援>

2011年の3・11大震災が起きた後も、被災地への支援と、JA新潟みらいのアピールを結び付けられないか―と高橋さんは考えた。「動機が不純、と怒られるかもしれないが、JA新潟みらいの力と心意気を示すため、組合員農家に『コメを10キロ以上出してくれ』とお願いしました。どこも、まだそんなことしていない頃でした。オレもコメ30キロ出して、『オレが一番だろ』って思ったら、軽トラで一杯運んできてくれた人もいたし、コメ農家じゃないのに、わざわざコメを買って出してくれた人もいた。11トン車2台で相馬市に届けたんです。マスコミに取り上げられるように、出陣式までやってね」と高橋さんの思い出話は熱がこもる。

その後、「大震災・復興支援」と銘打ってグループ旅行まで企画した。観光バスを2台仕立てて、磐梯山と松島を回ったそうだ。「少しの寄付金持って行ったんですが、磐越道の磐梯山パーキングエリアへ入ったら、車は被災地支援のステッカー貼ったのばっかり。観光バスなんて1台もいない。『こりゃ、えらいことやっちゃったかな』と青くなっていたら、パーキングエリアの責任者が出てきて、『こうやって、福島まで観光に来てくれて…。おカネ落としてくれることが、何よりありがたい』と言って、涙流された。松島でも、そうでした。行った人たちも、映像でしか見ていない光景。例えば漁船がまちの中にまで流されているのを見て、印象が強かったようです」と高橋さんは言う。

<「動くことに意義がある」>

「宣伝になるのなら逆立ちでも」という高橋流は、「保守性が強い」と言われるJAの中で異彩を放っていた。「まず、マスコミに取り上げられるにはどうすればいいのか、を考えました。不祥事でマスコミの怖さは身に染みて、その力も思い知らされていましたからね」と高橋さん。「動いても当たらないことも当然ありました。でも、私はやることに意義があると思う。色んなことを学べますから。やってマイナスになるのはダメだけど、10やって、6つ当たれば御の字じゃないですか」とも語る。

<「特産品売り出すには直売所」>

みらいエリアの農産物をもっと地域の消費者にも食べてもらいたい―そんな思いを募らせていた高橋さんが、次に取り組んだのが「大型直売所」の開設だった。丁度、新潟市が鳥屋野潟南部に「いくとぴあ食花」を整備することになり、その機能の一つに「直売所」が盛り込まれていた。高橋さんは早速、当時の市農水部幹部に相談。一時は「手応えあり」と感じたが、結局その場所はJA新潟市が運営することになった。2014年にオープンした「キラキラマーケット」である。

諦めきれずにいた高橋さんのもとに相談が来た。新潟市の西区役所候補地に挙げられていた土地が、「西区役所は現在地に建替え」の方針が決まったため、空いてしまっていた。「ここを使ってくれないか」との打診が土地区画整理組合関係者から舞い込んだ。「二つ返事で、『その話、乗った』と答えました」と高橋さん。それが、JA新潟みらいの運営する大規模直売所「ファーマーズマーケット いっぺこーと」(新潟市西区亀貝)誕生の瞬間だった。

<青空記者の目>

高橋豊さんはJAリーダーの中で「異色の存在」と長く思ってきた。「何事にも積極的で、明るく、前向きな人」との印象がずっとあったからだ。今回、50代半ば過ぎからの人生について、初めてまとまった話をお聞きした。高橋さんが「私は、あんたの後ろ姿見ながら、ずっとやってきたんだ」と話されたことに最初は驚いたが、高橋さんの話を聞いていて、「なるほど、似ている」と思い始めた。

高橋さんは、2002年に人生の転換点を迎え、コメ農家から農協の専務理事に転身。いきなり不祥事に直面し「農協再建」の重責を担うことになる。その後、組織内改革に邁進し、2007年の年明けに大合併で「JA新潟みらい」を誕生させ、広くなった管内の特産品売り出しに追われる。記者も2002年に新潟市長に就任させていただいたが、1年もしないうちに「官製談合」の摘発を受け、失墜した信頼回復のため組織内改革に追われた。大合併の後、政令市に移行したのはJAみらいの大合併と同じ2007年。以後、「田園型政令市」の特色をアピールすることが大きな責務となった。

「首相官邸に、あなたと一緒に行ったでしょ」との高橋さんの話で、眠っていた記憶が甦った。麻生政権時代の2008年、「田園型政令市」のシンボル・フルーツとも言うべき、ル・レクチエを持って官邸を訪ねたことがあった。ル・レクチエは官邸でも、すこぶる評判が良かった。この時も、高橋さんは持ち前の明るさでル・レクチエをアピールした。その敢闘精神が県内随一の大型直売所「いっぺこーと」を生むことになる。次は、そのご苦労を聞いていこう。

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