「防災・救援首都」を目指す新潟の役割

まちづくり

*「防災・救援首都」を目指す新潟の役割*

~いわき市「東日本大震災復興記憶集」原稿に寄せて~

 

2021年5月11日

前新潟市長・篠田 昭

東北・関東の太平洋側に未曽有の被害をもたらした3・11大震災から10年2カ月となりました。このほど、福島・いわき市から「東日本大震災10周年を記念して復興の記憶集をつくりたいので、救援・復旧の拠点となった新潟市が果たした役割について、当時の新潟市長として寄稿してほしい」との依頼を受けました。「新潟市長を務めていた者として当然のこと」とお受けし、この機会に新潟市の取り組みについて記憶をたどりながらまとめてみました。ただ、いわき市さんからの依頼は当然のことながら字数の制限があり、全体のことは書ききれませんでした。新潟の救援・復旧に向けての取り組みは、新潟市民や市役所など行政関係者、新潟経済界などが幅広く力を合わせたものでしたので、当時の記録としてブログにアップすることにしました。新潟が「防災・救援首都」としての役割を自らに認識することになった経緯の記録にもなっていると思います。

 

ー日本海側の「防災・救援首都」を目指して―

<「まず、仙台市を救援しよう!」>

10年前の3月11日午後2時46分、日本海側の新潟市も大きな揺れに見舞われました。激しい揺れが収まった後、市長室のテレビをつけっ放しにしていると、大津波が東北太平洋側を襲い、街並みを次々と呑み込んでいく恐ろしい光景が映し出されました。「歴史的な大災害だ!」と直感して、市役所幹部に「東北の最大拠点、仙台市をまず救援する」と方針を伝達。4時過ぎに先遣隊派遣を指示しました。

<闇夜に、羅針盤を手にしたようだった」>

新潟県では2004年の7・13水害から中越大地震、2007年の中越沖地震と災害が相次いでいました。新潟市はいずれも支援する側に回り、救援・復旧のノウハウが積み上がっていました。この時は中越大地震など災害対応体験の豊富な消防局幹部が先遣隊長となり、数人規模で出動しました。道路網が大混乱する中、ルートの判断が良かったのか、翌日午前零時台には仙台市役所に到着。奥山恵美子市長(当時)に会って、「今後の対応で12時間以内に最も必要とされることはこれ。24時間以内に手を打つべきことはこれ」などと具体的に例示し、助言したそうです。先遣隊長は、奥山市長から「今後、すべての対策本部会議に出席してほしい」と依頼され、以後、仙台市役所の廊下で寝泊まりをしながら、その任に当たったそうです。彼が新潟に戻ったのは2週間ほど後になりました。

<仙台市の避難所運営も支援>

3月末に私が仙台市を視察した際、いったん新潟に戻った先遣隊長も同行しました。彼と一緒に仙台市役所に入ると、現地のマスコミの人たちが次々と先遣隊長に声を掛けてきます。どうやら地元マスコミにとっても先遣隊長が貴重な情報源になっていたようです。お会いした奥山さんからは「先遣隊長の助言は時系列に沿い具体的で、闇夜の航海に羅針盤を手にしたようでした」との言葉をいただきました。災害対応は、何より経験がものを言う世界であることを再認識しました。仙台市には3月中旬から、避難所を運営する支援部隊を1日数十人規模で送りました。運営に当たった職員にとっても貴重な体験となったと聞きました。

<消防・水道部隊は最も被害の大きい石巻市へ>

一方、最も津波被害の大きかった石巻市へは消防と水道局部隊が救援に当たりました。これはそれぞれの全国組織から割り振られたものですが、新潟市は政令市の中でも被災地域に近いためなのか、災害対応に習熟していると思われたためか、分かりませんが、最困難地域を担当しました。救援に当たった消防職員は、おびただしいご遺体を収容する過酷な状況での職務となり、派遣後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)になった職員もいました。水道職員も大変な状況の中、「命の水」の供給を続けてくれました。

<新潟ナンバーに「ありがとう!」>

数か月後、新潟市にお礼に来てくれた亀山紘・石巻市長(当時)から「石巻市民は新潟ナンバーを見ると、その車に『ありがとう』と今も声掛けしています」との状況をお聞きました。石巻は大合併をして間もなくで大災害に見舞われました。以前からの市街地と合併した半島地域では地理特性がまったく違い、復旧・復興に向けての組み立てを何種類も考える必要がある都市でした。石巻には技術職員も決定的に不足していたので、新潟市から土木技術職を中心に5人チームを最低で半年間、長い人は複数年派遣する取り組みを何年か続けました。中には志願して2度、派遣に手を挙げる職員もいました。石巻は、市職員にとっても大変に得難い体験・実践研修をさせていただく場となりました。

<被災地から何万人もが新潟へ避難>

被災地の救援に当たる一方で、福島第一原発の過酷事故発生が明らかになると、新潟へは福島県を中心に何万人もの方が避難してきました。独自に保健所を持つ新潟市は、多くの保健所を運営する新潟県と連携して、放射線のスクリーニング作業をやりながら、できるだけ多くの方を安全に新潟に受け入れようと動き出しました。新潟市は、磐越道・国道49号からマイカーで避難する方々を担当することとし、近くの新潟テルサにスクリーニング会場を用意することで動き出しました。鳥屋野潟南部には広大な駐車スペースもあり、防災拠点として最適と考えていました。

写真=鳥屋野潟南部に整備された新潟市消防局庁舎。防災拠点の機能は3・11当時よりさらに強化されている

 

<スクリーニング機器がなかった>

ところが思わぬことが判明しました。柏崎刈羽原発のある新潟県の保健所には当然、放射線のスクリーニング機器が備わっていたのですが、新潟市の保健所にはその機器がなかったのです。急きょ、泉田知事(当時)と連絡を取り、県の機器・人員を借りて作業をすることにして難なきをえましたが、同じ保健所でも持つ機能が違うことに驚かされました。普段からの訓練が大事だったのですが、日本では「原発で事故は起きない」ことが当時は前提になっており、訓練の機会もなかったのです。

<新潟空港が中国人の帰国拠点に>

大量の人の流れがやってきました。新潟市ではまず市体育館を避難所として開設しましたが、それがすぐ満杯になってしまいました。次々と大型体育施設を避難所にして、ようやく避難される方々を受け入れました。新潟市に避難者が集中したことには訳がありました。丁度、新潟市に中国総領事館が開設された直後でしたが、中国は被災地に住んでいた自国民を新潟空港から避難させる方針をいち早く出したのです。何十台もの大型バスが次々と到着。3日ほどで数千人が一気にやってきました。「中国の方たちで一杯だから、日本人向けの避難所はもうない」とは、とても言えません。この時は必死でした。避難所機能がパンクすることを一時は心配しましたが、地域の方々がボランティアで避難者の世話をやき、助けてくれました。また、中国側の段取りも鮮やかでした。新潟空港では通常見ることのない大型機材が次々と到着。数日で自国民を母国に脱出させました。当時の王華・中国総領事は「中国人を助けてくれた新潟は、中国でとても感謝され、有名になっています」と後に語っていました。

反省点もあります。最初の避難所となった市体育館には日本人と中国籍の方が一緒になっていました。このような非常時では言語の違う方が混在していると、いらぬ不安感が芽生え、好ましい状況ではありませんでした。2,3日して、中国総領事館の担当者が「中国人だけの避難所に移ろう」と呼び掛けても、なかなか応じてくれず難儀していました。当初から「住み分け」がベターでした。

<末期がん患者も一緒に避難>

一方、当然のことながら日本人被災者の避難は長引きました。この時も市民ボランティアに助けられました。そんな中、県内他市町村の首長たちと情報交換するうちに、新潟市にいち早く避難された方の特性も分かってきました。原発事故への危機感が強いことに加え、マイカーを使い自力で避難してきた方たちだったのです。新潟市より後に、福島の市町村から集団で避難された方を受け入れた自治体は「大変度」が違いました。「病院やお年寄りの施設から集団でバス避難されてきた方々なので、末期がんの患者さんもいらっしゃる。医療の手当てが大変だ」「集団避難された方は、自ら移動する手段がない。避難所に入ったきりで、精神面を含めた健康が心配だ」などの声を多く聞きました。新潟市への避難者はほとんどがマイカーで避難されてきたため、昼間などは比較的自由に動かれており、避難所を運営する職員の負担は他自治体より少なかったようです。それでも、市民ボランティアたちの助けがなければ、もっとトラブルなどが多発していたでしょう。

<「新潟の避難所は行き届いている」>

避難が落ち着いてしばらく経ってから、福島県の首長や行政職員たちが避難されている方の状況把握のため、新潟にやってきました。私も何回か面談に立ち会いましたが、避難されてきた方の原発への厳しい思いや避難生活の辛さが首長たちに激しい言葉でぶつけられ、こちらも身の引き締まる思いでした。

その際、気づかされたことがあります。新潟県内の避難所運営が他地域に比べて優れているのだそうです。例えば南相馬市の桜井勝延市長(当時)からは「新潟の避難所運営ノウハウは素晴らしい。どうして、このノウハウを身に着けたのか」と聞かれました。また、浪江町の馬場有町長(当時)は「新潟はどこでも避難所の運営が行き届いている」と県内の避難所を高く評価し、感謝の言葉を述べられました。私たちには他県の避難所の情報はなく、比較しようがなかったのですが、やはり、新潟は何度も災害対応をしているうちに救援・復旧のノウハウが積み上がっていたのでしょう。これも新潟の「災害対応力」の一つと受け止めました。

日本政府の災害対応に考えさせられることも多々ありましたが、中でも福島第一原発事故後にSPEEDI(スピーディ・緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報が提供がされなかったことは問題です。浪江町の馬場町長は私との意見交換の際スピーディに触れ、「情報がまったくないまま、住民に避難をお願いしました。結果的にはプルーム(放射性雲)が来る方、来る方に住民を誘導したことが後で分かりました。住民に申し訳がなくて…」と言うと、絶句して涙を流されたのです。政府の事故調査・検証委員会がスピーディについて「住民避難に活用できた可能性がある」と指摘した後も、文科省は消極的な見解を示していましたが、とても納得できません。

<「支援物資の大半が新潟経由だ」>

災害発生から1カ月ほどすると、被災地への支援物資の多くが新潟港や日本海側の鉄道・道路を利用して被災地へ運ばれている状況がおぼろげながら分かってきました。福島第一原発の過酷事故のため、東京以西からの太平洋側ルートが使えないことが最大の要因でした。「新潟の果たした役割をしっかりとしたデータで取ろう。それによって新潟の秘められたミッション(使命)が明らかになるかもしれない」と考え、市の関係部局を連携させて、できる限りのデータ収集に入りました。新潟港や新潟空港のデータは比較的取りやすかったのですが、それ以外のデータはなかなか集まりません。それでもトラック業界やJR貨物、NEXCO東日本などの協力を得て、データをまとめていくと、概ね支援物資の8割近くが新潟県を経由して被災地に向かったことが分かりました。

JR貨物は大半の救援物資を新潟経由羽越線で輸送し、青森から南下させて目的地に近い駅からトラック輸送していました。トラック輸送は当初、磐越道が通行不能もしくは緊急車両のみの通行だったため、多くは国道113号線などを通って山形県に入り、そこから宮城・岩手県などに物資を送っていました。太平洋沿いの道路が津波で壊滅状態だったため、国交省東北地方整備局では内陸部の道路から太平洋側に向けての道路を早期に復旧させる作戦を立てました。後に「クシの歯作戦」として有名になりますが、指揮を取ったのは徳山日出男・東北地整局長(当時・後に国交次官)でした。徳山さんは若いころ、新潟国道事務所長を務められ、新潟との縁が深い方でした。後日、新潟市でのフォーラムにも出席いただき、当時のことを語ってもらいました。日本の道路軸は列島を縦断するものが優先され、横断軸の整備が不十分だったようです。東京から東北に向かう太平洋沿いの縦断軸が壊滅していたので、「あれしか方法がなかった」(徳山氏)のだそうです。

貴重な横断軸の一つであるはずの磐越道ですが、一般車両も利用できるようになった後も、「福島第一原発に近づくのが嫌で磐越道は使わない」と言っていたトラック会社もありましたし、片側1車線の磐越道を敬遠した車両も多かったようです。私も仙台市や石巻市の激励を兼ねた視察に磐越道を使って移動しましたが、片側1車線区間で前を速度の遅いタンクローリーなどが走っていると、イライラしてしまいました。磐越道は早期に全面4車線化が望まれます。

救援物資のみならず、東北太平洋側の企業活動を復活させるために最大の拠点となったのは新潟港でした。新潟港は年々貨物取扱量が増えていましたが、2010年ごろはコンテナの取扱量が16万TEUレベルでした。それが、大震災の起きた2011年には一気に20万TEUを突破しました。「新潟港と山形・秋田県が高速道でつながっていれば、もっと大きな支援機能を発揮できるのに」と港湾関係者は指摘していました。この時、新潟港と北海道の港や敦賀港をつないでいる新日本海フェリーは新潟ー室蘭に航路を絞り、救援物資を北海道経由で被災地に送ったことを付記しておきます。

<国交省の検討委に新潟の実績を報告>

5月になると、新潟市が各種データを収集していることを聞きつけた国交省から依頼がきました。窓口は「国交省・高速道のあり方を考える検討委員会」で、「高速道の活用に限らず、新潟の支援実績を報告してほしい」との要望が届いたのです。同検討委の座長が旧知の寺島実郎氏だったことも幸いでした。当時は民主党政権でしたが、大畠章宏・国交大臣をはじめ省幹部がそろう中で新潟の果した救援実績について報告しました。その結果、寺島座長をはじめ、大畠国交相ら省幹部がそろって「太平洋側が大災害に見舞われた時、最大の救援拠点は新潟をはじめとする日本海側だ」との認識を示してくれました。

<日東道のミッシングリンク解消へ>

このことが、「日本海軸の整備は重要」との文言で検討委の結論に盛り込まれました。久しぶりに「日本海軸」とのフレーズが復活したのです。その方向性は、「国土強靭化」を掲げる自公政権に引き継がれました。その結果、新潟―山形県境で途切れていた日本海沿岸東北自動車道のミッシングリンク解消に動き出したことは、新潟市にとっても嬉しい限りです。そんな経緯の中で新潟市は、今後想定せざるを得ない首都直下型や南海トラフなどの大地震が起きた際、最大の救援拠点となるべきミッションに気づき、「防災・救援首都」を標榜することにしました。

<「列島横断軸」も重要>

新潟が「防災・救援首都」として機能するためには、日本海側と太平洋側をつなぐ列島横断軸も重要です。最大の横断軸は関越道になりますが、先ほど触れたように磐越道も横断軸として大切な役割を有しています。磐越道の起点・終点となる新潟市―いわき市の関係はその意味でも特別と考えています。7年前だったでしょうか。いわき市の清水敏男市長や、いわき経済界の呼び掛けで、磐越道の早期4車線化を運動するシンポを開催いただきました。シンポのことを思い出しながら、私はこんな言葉で、いわき市からの依頼原稿を締めくくりました。

<いわき市との協働が欠かせない>

「いわき市さんと新潟市は、今後も連携して磐越道早期4車線化に向けて動いていく必要があると思います。磐越道をはじめとする列島横断軸は、日本海側が大きな被害を受けた時にも最大の救援ルートとして機能します。今後も日本列島の安全度を上げるために、いわき市さんとの協働が欠かせません。よろしくお願いします」

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